冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
ほとんどの私物はすでに自分のデスクから引き上げている。昼休みになって、残っているものを全て紙袋にしまっていた。
「……中野さん、本当にお疲れ様でした」
隣の席から丸山が缶コーヒーを手渡してくる。
「ありがとう。この後のこと、よろしくね」
丸山にはいろんな意味で助けられた。世話にもなった。
「中野さんがインドネシアに赴任になっても、こっちとの連絡業務は度々発生すると思うんで、よろしくお願いしますね。中野さんとの関係が完全に切れるわけじゃないんで、あなたのことちゃんと諦められるのか不安ですけど」
「ま、丸山君……っ!」
思わず周囲を見渡してしまう。
「大丈夫です。みんな、昼飯食べに行ってますよ」
そう言って丸山が笑った。
「……色々、噂になって、社内ざわつき始めて、その様子ずっと見てきて、やっぱ、俺じゃ敵わないなって思い知らされました」
少し伏せられた目が、丸山の笑みを寂しげなものに変える。
「中野さんも課長も大人過ぎて。綻びも隙もないから、俺では付け入ることもできなかった」
「丸山君、課長って……」
「俺、以前からなんとなく気付いてたんです。中野さんからではなく、課長の様子から」
どうして気付いたのか、気になっていた。
「ずっと前に、中野さんが会議室で体調崩したことがあったでしょ? その時、医務室で中野さんを見ていた課長の様子から、なんとなく」
そんなに前から……?
「いつも少しの私情も出さない人が、どこか違って見えた。とは言っても、そんな様子を見たのは、後にも先にもその一回だけですけどね。だから、やっぱり課長は大人です」
丸山の言葉に何も返せない。
「……それにしても、送迎会も壮行会もしないとか、本当に酷いですね」
「いいの、いいの。みんな忙しいし、私も忙しいしね。私の方から遠慮させてもらったの」
本来なら、赴任前にはだいたい盛大に送り出されるものだけれど、状況が状況だ。
『めちゃくちゃ気が進まないんだけど、何かしらセッティングしないとまずいんじゃない?』
『……だったら、誰が幹事するの? やるだけやっても、絶対盛り上がらないって……』
『だからと言ってやらなかったら、不自然だし』
そんな、形式的に開催されそうになっている裏側の会話に遭遇にした時に、丁重にお断りしておいた。
『すみません! 私、自分の引っ越し準備がかなりギリギリで。時間に余裕がないので、お気持ちだけいただいておきます』
そう自分から言ったら、わかりやすいほどにほっとしたような顔をしていた。それに、こちらとしてもそれは嘘偽りない本音だ。
「……ほんと、気遣いの人ですね」
「そういうんじゃないから」
そう言って笑うと、丸山が真面目な表情になって麻子をまっすぐに見た。
「絶対に、向こうで頑張ってくださいね。絶対」
「ありがとう」
それから、関係各所と同僚たちにも挨拶をした。結愛が現れた後に噂が広まってからはぎこちない空気だったプロジェクトメンバーも、最後には「頑張って来い」と言って送り出してくれた。
九条は、午後は取引先との会合で不在で挨拶はできなかった。
オフィスを出ると、冷たさの中にも春の訪れを感じさせる生暖かさのようなものを感じる。
麻子は、最後に九条に会うことを心に決めていた。