冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
社内で廊下を歩いていると、正面から歩いてくる副社長の娘、すみれが歩いて来るのが視界に入る。周囲に他の社員もいる。こんなところで注目を集めたくもない。視線を合わさずに会釈をして通り過ぎようとした時だ。
「……中野さん、ごめんなさい」
泣き声のような声が漏れる。それは弱々しいのに、はっきりと通るような声だった。
「私のせいで、あなたが辛い立場に置かれてること、知っています。本当に、ごめんなさい」
何を思ったのか、涙を拭いながらそんなことを口にした。
「河北さん。あなたが謝ることなんてないんだよ。本当に、優しすぎるんだから。自分を傷つけた人のことを守る必要なんてない」
いつの間にいたのか、すみれの肩を支えながら女子社員が声を張り上げる。
「……見ての通り、河北さんはこんなにも弱っているのよ。その心は少しも傷まないの?」
攻撃的な視線を向けられて、大声を張り上げられて。結局、周囲の社員たちの視線を集めている。
「もうやめて。私がお願いしたいのは一つだけなの。どうか、九条さんの名誉を守ってください。中野さんだけでなく、九条さんも今、苦しんでるんです。お願い、これ以上、彼を苦しめないで」
潤んだ目が麻子を見上げた。その涙の膜の向こうに、すみれの本当の感情を隠している。
“九条さんも今、苦しんでるんです。これ以上、彼を苦しめないで。“
その言だけは本当だ。
自分が、あの人を煩わせる存在なのは間違いない。
そんなこと、あなたに言われなくたって、わかっている――。
「私の立場については、お気になさらないでください。私の中に一点の曇りもないので、誰にどう見られようと気にしていませんから。課長も、一部下との事実無根の噂くらいでこれまで築き上げて来た地位が揺らぐような方ではないと思います。では、失礼致します」
すみれの目をハッキリ見えてそう告げると、すみれの眼差しが一瞬歪んで見えた。
私は私の方法で、あの人の名誉を守るから。
もう泣くもんか。
九条が一番に守りたかったもの。
それは、思い上がりでなければ、私を成長させキャリアを積ませることだったのではないか――。
麻子を仕事ができる人間にしたいと思っていた。そのための手助けを惜しまなかった。
これまでの九条と過ごした時間を振り返れば振り返るほど、そう思えてならない。だからこそ、その邪魔になるものは九条は全て排除してきた。
だったら。
その九条の想いを一番に考えたい。
誰よりも仕事のできる人間になってみせるから。
最後の赴任準備、そしてここでの仕事を全力でやり遂げた。そうして、赴任前、最後の出勤日を迎えた。
「中野さんが、今日をもって本社での業務を終え、インドネシアに赴任となる。中野さん、一言、お願いします」
プロジェクトメンバー、そして課内の人間の前に、九条から呼ばれる。意識的に背筋をピンと伸ばし、九条の隣に立った。
「プロジェクトが始動して、メンバーの一員として仕事をさせていただいてきました。初めての大きなプロジェクトに、慣れないことも多くてただひたすらに食らいついて。少しでもプロジェクト成功へと導ける助けになれたらと、その一心でした。皆さんの努力、熱意を一番近くで見てきました。ですから、インドネシアでは、皆さんの思いを背負って責任を持って業務にあたるつもりです。プロジェクトを終えるその瞬間、皆さんと一緒に笑えるよう精一杯働いてきます」
次に、課内の同僚たちに視線を向ける。
「こちらの課に異動してから、本当にお世話になりました。私が未熟なせいで、どこか生意気なところもあったかもしれません。ご迷惑をかけたことも数え切れません。でも、いろんな経験をさせていただいたその全部を糧にして、この先、新たな場所で頑張りたいと思います。ありがとうございました」
一度田所に視線を寄せ、そして最後に頭を下げた。
パラパラと、拍手の音がまばらに聞こえ始めた後に、数人の強く叩く拍手の音が遅れてやってくる。心から激励の気持ちを示してくれるのは、数えるほど。今の自分の置かれた上場を考えれば、それは理解している。
「向こうでも、君の力を思う存分発揮して、丸菱のためにしっかり働いてきてほしい。期待している」
九条がそう麻子に言葉を向けた。