冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
カーテンを全開にした窓からは、煌々とした月の明かりが深夜の部屋を照らす。
激しく抱き合ったのが嘘のように、九条の腕の中でじっとしている。どちらも言葉を発しない。
何を言ったらいいのかわからなかった。
抱き合っている時はよかった。今は、何かを言葉にするのが怖い。何を言っても、それは終わりの言葉に向かう気がした。
何も言えない代わりに、素肌の胸に強く顔を押し付けた。
「――眠れないのか?」
少し掠れた低い声が耳元で吐かれて、びくんと肩が震える。
「……眠れるわけ、ないです」
駄々をこねる子供のようにさらにきつくその胸に抱きついた。そうしたら、どこか躊躇いがちな手のひらが麻子の髪を撫でて。やっぱりその手はぎこちなかった。
「世の中には、腐るほど男がいる」
「なんですか、それ」
この人が今、何を言おうとしているのか――。
「君はまだ若い。この先いくらでも出会いがある。男が、麻子のような女を放っておくわけがない。君が幸せになれる出会いが、きっと――」
「私が魅力のある女に見えるのなら、」
九条が何を言おうとしているのかがわかるから、その言葉を遮った。
「そうしたのは、あなたでしょう? 私は課長と付き合って変わったの。私を変えたのはあなたです」
どんな意図があろうとも、その先の言葉を聞きたくない。
「自分の手で変えた女を、他の誰かに手渡せるなんて。次の誰かのために、課長は私を育てたの?」
「麻子……」
もう、九条の葛藤は少しは理解できる。
それでも、聞きたくなかっただけだ。
「すみません、わかってます。課長がそんなこと言うから、拗ねました」
九条の静かな鼓動が直に伝わって来る。今はまだ、こうして触れられる。
「私はまだまだ成長過程だから。この先、もっともっと変わっていきたい。課長が私の背中を押してくれたから、もっと遠くまで羽ばたきますよ」
じわりと熱いものが目が溢れるけれど、そのままでいた。
「いつか立派になった私を見てもらいたいから」
いつか、堂々と。胸を張って九条に会いたい。
「……頑張って来い」
そう言って、九条が痛いくらいに抱きしめた。
今、ここが私たちの終わりだ――。
もうわかっている。
自惚れでなければ、この人もきっと胸が痛んでいる。それでもこうすることしかできない人。
もっともっと、強くなりたい。
私はまだまだ未成熟だ。大人の女にはまだ遠い。
もっともっと強くなって、何があっても揺るがない自分になりたい――。
「課長、さよなら」
"ありがとう"
後少しでただの同僚に戻る九条に、最後の言葉を振り絞った。
漆黒の空を照らしていたはずの月はいつの間にか消えてなくなった。どんなに抗っても朝は来てしまう。
去り際は、無理をしてでもかっこいい姿を見せたかったから、背筋をピンと伸ばす。ありったけの笑顔で手を振って、背を向けた。
そうして、麻子はインドネシアへと飛び立った。