冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 どちらが先か分からない。一瞬の間もなくお互いの唇を重ね合わせていた。
 奥深くまで辿り着きたくて、少しでも深くと勢い任せに絡みつく。まるで、どうしても掴めない心に辿りつきたいかのように。

九条の大きな手のひらが麻子の両頬を挟み込んで、少しも逃げられないようにする。麻子は、少しも離れて行かないようにとその首筋に強く抱きついた。

 呼吸が苦しくなって反射的に唇を離しても、すぐにどちらからともなくまたぴたりと唇を埋め合う。深く重ねたままに、お互いの着ているものを手探りでまさぐる。

早く、その肌に触れたい。一番近くで触れ合いたい――。

「……もっと、見せてよ。あなたを見せて……っ」

濡れた唇が離れた隙に、どこか悲鳴のようにそう口にしていた。

「剥き出しの課長が見たい。お願い。最後に見せて」
「これが、本当の俺だ。余裕がなくて、もがいて足掻いて、みっともない俺だよ」

眉を歪めて、こちらを見つめている。泣いているわけでもないのに、その目は涙に濡れているように見えた。

「一人の女も幸せにしてやれない。そのくせ、離したくないとこんな風に君を抱く。どうしようもない男だ」

冷たいフレームと正反対の、そのレンズの奥の瞳。感情が(ほとばし)る眼差しに、胸が軋むように痛んだ。

その痛みが涙を連れてくる。麻子の目に次から次へと涙の粒が溢れ出した。何か言葉にしたら大声で泣き出してしまいそうで、ただ激しく頭を振る。

「……ごめん。ごめんな、麻子」

それ以上詫びの言葉なんか聞きたくなくて、乱暴に九条の唇を塞いだ。

自分で望んで感情剥き出しの九条を見て胸が苦しくなるなんて、なんて身勝手なのだろう。

そう思うのにどうしようもない。

これまでずっと、その冷たい瞳の奥で、どんな感情も殺したままで生きてきたのか。

深い孤独を心の奥底に隠していたのかもしれない。そんな九条という人間に、たまらなく苦しくなる。

「……んっ、」

激しさが増していくキスはとても淫らなものなのに、どこか悲しみを帯びている。そのぐちゃぐちゃな感情の中で、この身体は悲しいほどに感じてしまう。

これまで何度も抱かれた腕。いやというほど刻みつけられて来た熱が、呼び起こされる。

「か、課長……」
「もう、君の課長じゃない。名前で呼んで」
「――っ」

ようやく離れたと思った唇は、すぐさま耳たぶに移り、その手はいつの間にかはだけさせられたブラウスの中に入り込んでいく。

「ほら、」

追い詰められて身体の芯をかけあがっていくような快感が、自分を制御できなくさせた。

「拓也、さん……っ、拓也――」

――っ!

我を失ったように這いずり回る熱く濡れたその舌が、より麻子を登りつめさせる。

「ま、待って、」
「待たないよ。俺も、君が乱れて正気じゃなくなる姿を見たいんだ。この目に焼き付けたい」

いつも少しの隙もなく着こなされているスーツが、見たこともないほどに乱れて。それだけで感情が昂ぶる。
狂気的な男の色気を放出させた九条に、恥もプライドも何もかもを手放した。

「あなたが欲しい。早く、欲しいの」

崩れた前髪がその鋭い目にかかる。眼鏡を乱暴に外した後、麻子の腰をぐっと自分へと押し付けた。

「俺もだ。君が欲しくてこんなになっているのがわかるか? 君が何も考えられなくなるくらいに壊してしまいたい」
「いっそのこと、壊して」

明日なんて来なくていいから。
仕事への責任も、同僚の噂への対処も、何もかもを放り出してしまいたい。

「麻子……」

もうとっくに受け入れる準備のできていたそこに、熱くたぎったものが入っていく。その瞬間にはもう声をあげていた。

「あぁ……っ」

胸板が顕になった肌に手のひらを当てて、激しくなった呼吸に合わせる。一緒になって身体を揺らし髪を振り乱した。

「どうしよう……気持ちいい。悲しいのに、気持ちいいの」

これが最後だと、その事実が頭を埋め尽くしているのに、こんなにも快感に溺れてしまうのが怖い。

「こんなの、困るのに、」
「俺もだよ。死ぬほど気持ちよくて。もう二度と、君の中から出たくない」

誰か、時間を止めて欲しい。
そうしてくれるなら、何もかも差し出すから――。

「愚かだな……」

額に汗を浮かべながら、九条が苦しげに笑った。

「私も同じ。私たち、二人揃って愚かですね」

夜なんて、明けなければいいのに。
このまま夜に二人して溶けてしまいたい。

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