冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜

「こんなところで何して――」

決して動くことない表情筋がぴくりと動く。レンズ越しの眼差しが麻子の顔を捉えると、九条が続きの言葉を飲み込んだ。その時、麻子はようやく自分が泣いているということを思い出した。

「か、課長、あ、あの、すみません」

あの課長に、こんなところで泣いている姿なんて見られたらより軽蔑される。

そんな発想が真っ先に思い立って、一体何に謝っているのかもわからないまま頭を何度も下げる麻子に、九条の低く艶めいた声が届いた。

「見なかったことにしてほしい? それとも――ここにとどまってほしい?」

え――?

「……課長?」

思わず見上げた九条の顔は、涙と夜の中で滲んで見えて。一体どんな表情をしているのかよくわからない。なのに、その目がいつもより少しだけ労るようなものに見えてしまった。

本当に九条がそんな目をしているわけではなく、それはただの自分の願望だと分かるのに、その眼差しに縋りたくなってしまった。

「……いてほしい、です」

自分があの九条にそんなことを言っているこの状況に、もう現実だと思えない。だからか、言えるはずがないことを、言っていた。

言ってしまった後で急に怖くなる。握り合わせた両手が震え、それ以上九条を見ていられなくてじっと俯いた。九条の次の言葉を待つ時間が永遠にも感じた。

時折、二人の横を通り過ぎていく通行人の足音がする。

「――うちに、来るか?」

え……?
うちって、家? 課長の家――?

さすがにそこまでの展開を想像してはいなかった。

「……ふっ」

麻子が思わず上げた顔を見て、九条が今度こそ本当に少しだけ笑った。どれだけ間抜けな顔を見せたのか。

課長の笑った顔、初めて見た――。

口元に当てた手のひらが唇を隠すから、その笑全部を見たわけではない。でも、それは麻子の胸の奥を確実に刺激した。

「そんな顔しなくていい。部下に手を出したりはしない」
「い、いえ、そんなこと思ってません――」
「ただ、君のそんな顔を晒させたくないだけだ」

課長――。

手で自分の顔を覆えば、手のひらが濡れた。涙でぐちゃぐちゃの、化粧が全て剥がれ落ちた酷い顔だ。

「信用できないなら、やっぱり私と二人でいるのが気詰まりなら、そのまま帰ってくれて構わない」

九条は、既に麻子に背を向けて歩き出していた。それに慌てて続く。

 そのすっと伸びた背中を見つめる。後ろ姿なのをいいことに九条をじっと見つめた。

 切り揃えられた後ろ髪、皺のないピンとした濃紺のスーツ。全身から発せられる人を寄せ付けないオーラは変わらない。それなのに、その背中を見つめると胸が締め付けられるのは何故だろう。

 長い腕が上がり、タクシーを止める。

 夜空に月が浮かんでいる。
 母が死んだ日から12年。12年ぶりに泣いた夜、麻子の隣にいてくれたのは九条だった。

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