冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
そうして向かった先は、結局会社だった。最後の最後逃げ込める場所は、仕事だったのか。何も考えないで、ただ仕事をしていれば何もかも忘れられるかもしれない。
この日あったこと、何もかも。
土曜日のビジネス街は眠っている。飲食店もコンビニもほとんどが閉まっていて、通行人もまばらだ。ただ高層ビルとそれに挟まれた道路だけがある。
「……ほんと、最悪」
タクシーを降りて、夜の歩道で立ち止まる。
膝に手をついて俯けば、アスファルトが目に入った。ポツンと黒い染みができる。
何、泣いてんのよ――。
今頃流れて来た、この日二度目の涙は何なのか。
前の晩に会いたいと祐介に言ったら、次の日仕事が早いからと言った。それは、結愛と会う約束をしていたからだったのだ。
一体いつから?
一度だけ、結愛と祐介が顔を合わせたことがあった。結愛が突然、麻子の家に押しかけて来た時。あの時、祐介も麻子の部屋にいた。
あの日。思い立って東京に来たから、身の回りのものがないって結愛が言って。それで、祐介が自分が車を出すと申し出て……。
その時から?
ここ最近、祐介が忙しいと言って会おうとしなかったのは、結愛と付き合っていたから――。
「……ふっ」
自分の口から声が漏れる。
笑うしかない。何も知らずに、結愛の面倒を見て一緒に暮らして来た。そんな自分に笑うしかない。
「もう、やんなる」
笑いたいのに涙が次々に溢れて止まらなくなる。
「ほんと、私、何やってんだろ」
アスファルトの黒い染みがじわじわと広がっていく。
今逃げ場所にしようとしている仕事だって、中途半端で全然上手くできてなくて。
私は何の役にも立たない誰からも邪魔にされる存在で。そのくせに、たった一人の母親を酷く傷つけた、最低の人間で――。
「――中野さん、か?」
頭上から、思いもよらない声がする。自分の顔が今どんなことになってるかも忘れて顔を上げてしまった。そこだけいつもの日常があるみたいに、少しの崩れもないスーツ姿の九条がいた。