冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
丸の内のオフィスからタクシーで15分ほどの場所にある、都心湾岸エリアのタワーマンション。その高層階に九条の部屋はあった。
「――そこ、座って」
九条の部屋にいる――そんな、非現実的な状況に、ついキョロキョロと視線を忙しなく動かしていると声をかけられた。
「は、はい」
ダークグレーのソファに浅く腰掛ける。到底、寛げる気分になどならない。
大きな窓からは眩いばかりの夜景が絵画のように見える。リビングダイニングには、必要最低限の家具が備えられているだけだった。ただ、目を引くのは天井までの大きな書棚だ。その隣にデスクがあった。それ以外は、まるで生活感がない。無機質な空間だった。
ここで、いつも課長が過ごしている――。
プライベートが謎だった人のプライベートゾーンにいることに、未だ現実味はない。いっそのこと夢の中のことだと思ってしまった方が楽なのではないかと思う。
「酒でも飲むか?」
オープンキッチンから九条の声が届いた。
「え……っと、」
「飲めば、その緊張も解けるだろ」
「緊張してるの、わかりますか?」
九条がこちらに振り返る。
「見ていれば、明らかだ」
その答えに苦笑する。
「じゃあ……お願いします」
確かに、アルコールの力を借りてしまった方がいい。
「ビールでいいか」
「はい」
自分の部屋でもそのスーツ姿を少しも崩すことなく、缶ビールを持って来た。そして、麻子から離れたソファのオットマンに腰掛けた。
「……ほら」
「あ、ありがとうございます」
麻子に缶ビールを差し出すと、九条も自分が手にしている缶のプルタブを引いていた。九条が早速飲み始めたのを見て、麻子も慌ててビールを口にする。
「何か話したければ話せばいいし、何も言いたくなければ話さなくていい。自分が楽になる方を選べばいい」
両膝に腕を置いて九条が言った。
「……変なところをお見せしたせいで、ご迷惑をおかけして。本当に申し訳ありません」
この距離感に助けられる。それも九条なりの配慮なのだろうと思うと、違う意味で緊張して来る。
「私が、あんな、道の真ん中で泣いたりしてたから……ですよね」
自分の部下があんな風に泣いていたら、無視しては帰れないだろう。
客観的に考えると、恥ずかしさに居た堪れなくなる。冷静になればなるほどとんでもないことをした気がして、さらにビールを流し込んだ。
「上司が部下に対して取る行動からは逸脱してる、だろうな」
「……え?」
缶ビールを握りしめながら、九条を見る。