冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「課長、お疲れ様でした」

課に戻る廊下を、九条の一歩後ろで歩く。

「本部長も言っていた通り、資料は基本的にはあのままでいい。ただ、次は役員だから、少し簡潔にした方がいいだろう」
「はい」
「それから、聞いていて分かったと思うが、相手は資料を読んで分かっていても、自分にとって一番肝だと思うところは必ず聞いて来る。その時、絶対に答えを躊躇してはならない。相手に不安を与えないためだ」
「はい」

歩きながら次々と九条が言葉を放つ。

「質問が出たところは必ず頭に入れておけ。その点は事業が進んだ後もずっと気にかけるだろう部分だからな。全てはそこで終わりじゃない。必ずいつかどこかで顔を出す。その時にすぐに対処できてこそ、相手から信頼を勝ち取れる」
「はい」

必死にメモする。

「おそらく、役員説明は来週になる。それまでに、説明資料では間に合わないリアルタイムの情報は追加で揃えておきたい。控え資料として備えておく必要がある。その準備を頼む」
「東南アジア諸国分で構いいませんか?」
「それとアフリカも入れるように。比較対象として最適だ。具体的国名はあとで伝える」
「わかりました」

不意に九条が足を止め、麻子に振り返った。

「君の業務量がかなり多くなる。大丈夫か?」
「大丈夫です。体力と根性だけはあるので。それより、今はたくさんのことを吸収したいんです。私にやらせてください」

少し何かを考えるような表情をして、再び視線を麻子に戻す。

「わかった。でも、無理はするな」
「課長でもそんなことをおっしゃるんですね……って、すみません」

心の声が漏れてしまっていた。

「確か、私は“鬼上司“だったな」
「えっ?」

丸山と話した時『鬼上司』と言った。確かに自分が言った。

「す、すみません……っ!」

まさか、聞かれていたなんて……。

「別に謝らなくていい。君に言われるまでもなく、周りにどう思われているかくらいわかっている」

そんなことを言う九条に、つい笑みが溢れてしまう。

「でも、気にはなさってないですよね」
「あたりまえだ。周囲の評価を気にしていたら管理職なんてつとまらない」

その言い方。

少しは、強がってたりするのかな?

ほんの少し、九条の人間味のあるところを見た気がしてなんとなく嬉しい。

「……笑えるなら、もう大丈夫だな」
「え……?」

九条が視線を緩める。

それは、あの土曜日の夜に見ることができた表情(かお)と同じものだった。

「仕事は山ほどある。行くぞ」

くるりと翻った九条の背中に、胸がギュッと締め付けられる。

課長、ずるいです――。

うるさいくらいに高鳴る胸が恨めしくなる。

< 49 / 252 >

この作品をシェア

pagetop