冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 麻子は多忙を極めていた。一分一秒が惜しい。1時間が1分くらいに感じる。

 深夜までの残業が続いて、慢性的睡眠不足。本当は昼休みの時間すら惜しかったが、栄養まで不足したらいよいよまずい。

 社員食堂で、野菜炒め定食を無理やりかきこんでいた。

「――あ、あれ、九条さんじゃない?」

隣の女子グループから聞こえて来た"九条"というワードに、過敏に反応してしまう。

ついその姿を探す。食堂の入り口から、誰かと連れ立ってやって来る九条を見つけた。

「ほんとだ。隣にいるの……あれ、副社長でしょ」
「副社長? 九条さん、さすが。一課長が副社長と二人で昼ごはんなんて普通食べないよ」

彼女たちは声を落としているつもりかもしれないが、全部会話が聞こえて来る。

「やっぱり、容姿は抜群だよね。スタイルいいし、凄いイケメン。あの涼しげな顔、タイプど真ん中なんだけど」

うっとりとした声に、何故か胸の奥がザワザワする。

「容姿だけじゃないよ。仕事だってめちゃくちゃできる。副社長と一緒にいるってことは、あの噂、本当なのかも……」

噂――?

「噂って?」

麻子の心の中の声と女子社員の声が重なった。

「副社長が自分の娘と九条さんを結婚させたがってるって話」

結婚――。

手にしていた箸を落としそうになる。

「副社長、九条さんのこと誰よりも目にかけてるって話だし、個人的にも高く評価してて。可愛い一人娘の婿にどうしても欲しいらしい」

副社長の娘さんと、課長が……。

「それ、九条さんにとって損になる話じゃないよね。付き合ってる人がいないなら、その話受けそうじゃない? あの人、合理的そうだし」
「あー、なんか分かる。感情的に行動するタイプじゃなさそう。そもそも、九条さんって恋人いるの? あんまり噂聞かない」

どうしてこんなに胸が痛いんだろう。私には関係ないし、あの人は上司でしかない――。

「あの能力と容姿だからね。強者たちがアプローチしたりもしてたらしいけど、上手く行った人はいないらしい」
「うわぁ……冷酷オーラ出してるもんね。振る時も冷たそう」
「社外で、割り切った遊びとかしてそうじゃない?」
「確かに」

九条がどこで誰と何をしようが関係ない。
 
なのに、あの人が誰かを抱きしめる姿を想像すると、たまらなく苦しい――。

こんなことを想像するのすら間違ってる。
こんなのおかしい。

九条が副社長と親しげに話している姿を視界に入れたくなくて、麻子は席を立った。

< 50 / 252 >

この作品をシェア

pagetop