冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
麻子は多忙を極めていた。一分一秒が惜しい。1時間が1分くらいに感じる。
深夜までの残業が続いて、慢性的睡眠不足。本当は昼休みの時間すら惜しかったが、栄養まで不足したらいよいよまずい。
社員食堂で、野菜炒め定食を無理やりかきこんでいた。
「――あ、あれ、九条さんじゃない?」
隣の女子グループから聞こえて来た"九条"というワードに、過敏に反応してしまう。
ついその姿を探す。食堂の入り口から、誰かと連れ立ってやって来る九条を見つけた。
「ほんとだ。隣にいるの……あれ、副社長でしょ」
「副社長? 九条さん、さすが。一課長が副社長と二人で昼ごはんなんて普通食べないよ」
彼女たちは声を落としているつもりかもしれないが、全部会話が聞こえて来る。
「やっぱり、容姿は抜群だよね。スタイルいいし、凄いイケメン。あの涼しげな顔、タイプど真ん中なんだけど」
うっとりとした声に、何故か胸の奥がザワザワする。
「容姿だけじゃないよ。仕事だってめちゃくちゃできる。副社長と一緒にいるってことは、あの噂、本当なのかも……」
噂――?
「噂って?」
麻子の心の中の声と女子社員の声が重なった。
「副社長が自分の娘と九条さんを結婚させたがってるって話」
結婚――。
手にしていた箸を落としそうになる。
「副社長、九条さんのこと誰よりも目にかけてるって話だし、個人的にも高く評価してて。可愛い一人娘の婿にどうしても欲しいらしい」
副社長の娘さんと、課長が……。
「それ、九条さんにとって損になる話じゃないよね。付き合ってる人がいないなら、その話受けそうじゃない? あの人、合理的そうだし」
「あー、なんか分かる。感情的に行動するタイプじゃなさそう。そもそも、九条さんって恋人いるの? あんまり噂聞かない」
どうしてこんなに胸が痛いんだろう。私には関係ないし、あの人は上司でしかない――。
「あの能力と容姿だからね。強者たちがアプローチしたりもしてたらしいけど、上手く行った人はいないらしい」
「うわぁ……冷酷オーラ出してるもんね。振る時も冷たそう」
「社外で、割り切った遊びとかしてそうじゃない?」
「確かに」
九条がどこで誰と何をしようが関係ない。
なのに、あの人が誰かを抱きしめる姿を想像すると、たまらなく苦しい――。
こんなことを想像するのすら間違ってる。
こんなのおかしい。
九条が副社長と親しげに話している姿を視界に入れたくなくて、麻子は席を立った。