冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
仕事だ。仕事。
電光石火のごとくキーボードを叩きまくる。
大切な案件を抱えている。失敗は許されない。九条に迷惑かけられない。
"副社長の娘さんとの話、受けそうだよね"
脳内に投げ込まれる会話。それがナイフになって胸を突き刺さす。
「……中野さん、大丈夫ですか?」
「え?」
隣から伺うような声が聞こえた。
「なんか、顔色悪いですよ。最近、無理し過ぎじゃないですか?」
「あ……うん、気をつける。でも、丸山君、早めに上げてくれるから助かってる。ありがとう」
「いや、それくらい、いいんですけど」
ちゃんと集中しないと完成度が低くなる。そんな中途半端なもの、絶対に作りたくない。
再び、キーボードを叩く。
心の中に制御できない感情が渦巻くのを必死に押さえ込んで。一心不乱に仕事した。
そうして、役員説明の日がやって来た。
「関係資料に不備はないか?」
「はい、確認できてます」
あらかじめ九条に指示されていた資料はすべて用意した。プラスアルファのデータについても、必要になりそうなものは自主的に揃えた。できうる限りの準備はしたつもりだ。
ただ――。
今朝から物凄く体調が悪い。身体が重くて、朝食も喉を通らなかった。6月に入って気温と湿度が上がってきたのもあるかもしれない。頭が重く、足元も少しふらつく。
とりあえず今日の説明が済んだらひと段落つく。今日さえ乗り切れれば少し休める。目の前の仕事に集中することで、体調不良を忘れさせた。
今回は、坂田と九条の他に営業本部長、そして、管理部門からも出席者がいる。やはりそこは役員説明だ。ギャラリーも多い。写真でしか見たことのなかった常務が目の前にいる。他にも役員が数人いた。
会議室前方にある説明台に九条が立つ。麻子はその端に控えた。
「では、お手元の資料をご覧ください――」
前置きは短めに、九条が早速説明に入る。麻子以外、皆役職が上の人間ばかりの場にも関わらず、気負うことも上擦ることもなく、明瞭に説明する。これまで大きな仕事をいくつも成し遂げて来たということだろう。
九条がどうしてこんなにも出世が早いのか、上層部から評価されるのか、日々、自分の目で実感して来た。
「――いかに、このエリアの開発が必要か、こちらをご覧ください」
映し出された画面を元に、九条が的確でインパクトのある言葉を印象深く使っていく。
本当に上手い。
自分が作った資料が、グレードアップされたようだすべてが最高の手本だ。
「ここです。突出した数値には非常に重要なファクターがあります」
そこは、今回の役員説明にあたり資料をブラッシュアップをする中で課長に進言したところだ。
自分のしたことが九条の役に立っている――そのことが純粋に嬉しい。
「――これは、資料作成担当の中野が指摘したものです。どういった要因か彼女の方からご説明致します」
そう告げると、九条が麻子の元にやって来た。
私が――?
(君が私に説明したのと同じことを言えばいい。それで十分だ。何の心配もいらない)
突然のことに動揺しそうになったが、九条のその言葉で不思議と心は冷静になれた。
(分かりました)
九条に頷き、一歩前へと出た。