冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
走り続けてヒリヒリと痛む胸を押さえ、自分のデスクに逃げ込む。必死に胸をさすりながら自分を叱る。
課長が誰と付き合っていようと、関係ない。私は、片思いしていただけのただの部下だ――。
手のひらで乱暴に顔を覆う。息を止めても歯を食いしばっても涙を止められない。
泣くな。課長の元で仕事して、部下としてそばにいられたらそれでいいと言った自分を裏切るな――。
あの綺麗な女性を、今頃優しく抱き寄せているだろうか。他の人には絶対に見せない、甘く優しい顔を見せるのか。
考えないようにと振り払えば振り払うほど、想像が膨れ上がる。
誰もいないフロアは、自分のデスク灯だけがついている。明るくない部屋が余計に心を無防備にした。
「――まだ、残っていたのか」
その声に呼吸が止まる。静かなフロアに足音が近づく。
どうして――。
こんな精神状況で取り繕える自信なんかない。
「中野さん」
返事ができない。
「中野さん――」
人影が視界に入り、九条が麻子のデスクのそばに立つ。
大人なら、社会人なら、何がなんでも取り繕え――。
「……どうした?」
麻子の顔を見た瞬間、その声音が変わる。
「なんでもありません。ちょっと、仕事に集中していて、気づかなくて」
「どうした。何かあったのか? また、親族のことで何か――」
「本当に、なんでもありませんので!」
頑なに九条に背を向け、意味のない文字をキーボードで打ち込み続ける。
「だったら、どうして泣いてるんだ」
珍しく食い下がる九条に感情が昂って。どうにもならなくなった。
「そんなに聞きたいなら、教えてください。課長は、お見合いされたんですか? ご結婚されるんですか」
後ろに振り返り、そう言い放っていた。
自分が馬鹿なことをしているとわかっているのに止められない。
酒の席の後だというのに、少しの緩みもないスーツ姿。九条が一瞬眉をしかめる。
「それとこれと、何の関係が?」
やっぱり、あの人が副社長の娘さんなのか。課長は、あの人のものになるのか――。
二人で初めて話した4年前、九条の部屋に行った二人だけの秘密、会議室で肩を貸してくれたこと。二人だけの記憶が次々と押し寄せて、もうダメだった。
「……課長のことが、好きだからです」
情けなくてみっともない涙がこぼれ落ちる。
「課長のことが好きだから、知りたいんです」
愚かにも言葉にしてしまった。
「……君は、何か勘違いしているんじゃないのか?」
九条の冷たい声に心が凍りつく。
「君は辛いことがあった。そんな時、誰かに縋りたくなるのかもしれないが、そんなものは恋愛感情じゃない。君は勘違いしているだけだ」
「違います。勘違いなんかじゃありません」
「じゃあ、言い方を変えよう」
少しも揺らぐことのない切れ長の眼差しが、現実を突きつけてきた。
「私にとって君はただの部下だ。それ以上でもそれ以下でもない」
九条の視線が外れ、その影が一歩遠ざかる。
「もし、私の行動が君を誤解させたのなら悪かった」
大粒の涙が頬を伝う。
こんな身勝手なことを打ち明けて。そして身勝手にも泣くなんて、本当に最低だ。
九条は、自分のデスクに何かを置くと、そのまま足早に部屋を出て行った。そのドライさに今は救われる。
その夜、アパートで一人うずくまるようにして泣いた。
衝動のままに想いを告げてしまった取り返しのつかない後悔に、消えてしまいたくなる。