冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
7月に入って、そろそろ梅雨明けの時期はいつ頃かという話題が出始めた。このジメジメとした日々も、もうすぐ終わる。そうすれば季節は夏本番だ。
初めて事業の提案から関わった案件は着実に前に進んでいる。
「経産省との調整がそろそろ必要だな」
「担当課の方に時間を作って欲しいと依頼しているので、二、三日以内に返事が来ると思います」
「その時の出席者の役職は重要だ。連絡が来たらすぐに私に報告してくれ」
「承知致しました」
九条が必要としそうなことを考えながら仕事をする。仕事に忙殺されている九条を助けたい。その一心で仕事をこなしていた。
今日も遅くなったな――。
思い切り腕を伸ばす。
腕時計を確認すると22時を回っていた。夕飯を食べるのを忘れていた。思い出したら急に空腹を感じる始末だ。まだもう少し仕事を進めておきたい。コンビニにおにぎりでも買おうと外に出ることにした。
「俺たちもう上がるよー」
「はい、お疲れ様でした」
まだ残っていた課員たちが、麻子に声を掛けてきた。
課長の席に九条の姿はない。取引先との会食だと言っていた。明るいうちは仕事、夜は酒の席。どれだけタフなんだろうか。九条は、涼しい顔をして激務をこなす。そういうところも『アンドロイド』と呼ばれる所以だろう。
コンビニで緑茶と梅おにぎりを買ってオフィスに戻る。
平日のオフィス街も、22時を過ぎれば歩いている人は少ない。
今日も課内で最後の一人だろうな、なんてことを思いながらコンビニの袋を手に歩いている時だった。
「――九条さん」
この耳は、そのワードだけは絶対に聞き逃さないようにできているみたいだ。その名前を呼ぶ女性の声が聞こえてきた。身体が勝手に探してしまう。そして、この目はその姿を見つけてしまった。オフィスビルが立ち並ぶビルとビルの間、歩道より薄暗い場所で、九条が女性と向き合っていた。
立ち聞きなんてしちゃいけない。そんなことするべきじゃない――。
胸の鼓動が激しく自分を責め立てる。
「こんな時間にどうしたんですか」
「どうしてもお会いしたくて。ご迷惑を承知で九条さんを待ってしまいました」
真っ直ぐに流れる長い黒髪の美しい人。
「すみれさんに待たれて、迷惑だなんて思いませんよ」
"すみれさん"
いつもの九条からは想像もつかない甘く優しい声に、頭が真っ白になった。真っ白になって激しく傷ついている。
報われないと分かっていた。なのに、どうしようもなくどろどろとした重く醜い感情が心を埋め尽くす。
「ただ、時間も時間だ。危ないから心配しているんです」
「九条さん、私――」
耳に届く会話を振り切り、もつれる足を懸命に動かし走った。
立ち聞きなんて醜いことをした罰だ。この胸の痛みも苦しみも、お門違いな嫉妬も――。