冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


 どれだけ消えたくなったところで、後悔で死んでしまいそうになったところで、無情にも朝はやって来る。

 夜通し吐いたため息の息の量で、窒息できる自信がある。

 課長は、私が恋人に裏切られたばかりの身だということを知っている。そんな人間が、そう月日が経たないうちに告白なんかしてきたら、呆れるし軽蔑するだろう。
 それにもし、あの人と婚約しているのなら、あんな告白迷惑でしかない。

それ以前に、部下から想いを告げられるなんて、とんでもなく迷惑――。

ああ……っ!

時間が経つごとに冷静になって、頭を掻きむしりたくなる。真新しいベッドから中々出られない。

いっそのこと休んでしまおうか……。

そんな無責任なこと出来ない。

気まずいのは私だけじゃない。むしろ、何も悪くない課長の方じゃないか……。

お願いだから、時間を巻き戻してほしい。


 鉄の塊のように重い身体でベッドから這い出る。

 仕事だけはちゃんとしたい。もう、それくらいしから自分を支えられるものはない。そして、九条にいらぬ気を遣わせないようにするのも、せめてもの償いだ。

 洗面所で顔を洗い、頬を手のひらでパンパンと叩く。


 いつも通り朝早く出勤した。この日ばかりは、仕事を進めるためだけではない。職場に行って、一人だけの時間で気持ちを落ち着けるためでもあった。

 なのに――既に九条の姿があった。

 入り口で足が止まる。

 まだ、九条以外出勤してきている気配はない。ここで挨拶もしないのは、部下としてあり得ない。逃げるわけにはいかない。

 震える足で小さく深呼吸をした。そして、一歩一歩、足を踏み出す。

「課長、昨日は大変申し訳ありませんでした!」

朝の挨拶もすっ飛ばし、深く頭を下げた。九条の顔を見たら、絶対に上手く言えない。頭を下げたままで口を開く。

「課長のご迷惑を顧みず、部下として不適切なことを言ってしまいました。ここ最近、いろいろあって、どうかしていました。課長のおっしゃる通りです。勝手なお願いではありますが、昨日のことは忘れていただけると助かります!」

一息に捲し立てた。 
拒否感をもたれているかもしれない。
顔を上げないままで九条の言葉を待つ。気分は判決を待つ被告人だ。

「――忘れるよ」

頭上から聞こえる九条の声で、ようやく深く呼吸する。

「ありがとうございます」

顔を上げると、いつもより目尻が下がりどこか労わるような目があった。

「これからもビシバシお願いします。では、失礼します!」

懸命に笑顔を作り、明るい声を出す。昨日のことを軽いものにするにはそれしかない。九条に気を遣わせるようなことにはしたくない。
 もう一度深く頭を下げ、自分の席へ向かおうと九条に背を向けた。

「――昨日と今日とで、私の君への評価は何も変わっていない。君も、もう何も気にするな」

背後で掛けられた言葉に足を止める。込み上げる感情をぐっと押し留めるため、胸に手を当てた。

「ありがとうございます」

振り向くことなくそう言って、そのまま歩き出す。

もしかしたら、早朝出勤して来たのは、このためだったのではないか――。

九条なりの優しさに泣き出してしまいそうで、もう顔を見られなかった。

 きっと。この想いは簡単には消えることはないだろう。

 けれど、九条の心遣いに応えるためにも、もう決して悟られないように。それが、唯一、麻子ができることだった。
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