冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜
その日から、より一層仕事に没頭した。余計なことを考える隙を自分自身に与えないためだ。
そして、これまで以上に明るく振る舞いながら仕事をした。九条に、もうなんとも思っていないと思わせるため。仕事をしている時も、九条と社内ですれ違うときも、明るくいることに神経を使った。
本当の自分とは裏腹なことをしている苦しさがあっても、仕事は自分を救ってくれるものでもあった。
そうして7月も下旬を迎えた頃だった。
「――中野さん、ちょっといいかな」
部長の坂田が九条の元に訪れていた。二人で話をしていると思ったら、坂田が麻子を呼んだ。
「はい」
九条は、どこか険しい表情をしている。
どうしたのか。
「ブライト社との接待、中野さんも同席してくれ。君も担当者だからな」
「承知致しました」
「君も分かると思うが、今度の事業の大事な相手だ。しっかり頼むよ」
九条と共に進めている案件の重要な相手先企業だ。大事な接待になる。
何故か、九条は何かを考えるようにして無言のままだった。
「じゃあ、九条君、よろしくな」
坂田が九条の肩をポンと叩く。
「……承知致しました」
そう答えた九条の表情が気になる。何かあるのだろうか。
「課長、お店のレベルはどの程度がよろしいでしょうか。あの、……課長?」
坂田が部屋を出て行ったあと九条に聞いた。でも九条から返事がない。
「課長?」
「あ、ああ……」
「どうなさいましたか?」
眉間に少し皺を寄せ、麻子を見た。
「相手の出席者は営業部長と常務。店は高級感を全面に出した店を。高級酒を取り揃えた店の個室で、いくつかピックアップしてくれ」
「承知いたしました。早速リストアップしてみます」
それ以外のことは、特に九条は何も言わなかったが、その表情だけは最後まで気になった。
廊下を歩いている時、坂田に突然呼び止められた。
「ちょうどいいところで会った。君に伝えておきたいことがある」
「なんでしょうか」
坂田が麻子個人に話しかけてきたことなどない。不思議に思いながら足を止めた。
「ブライト社の常務だが、彼は特に若い女性がいると喜ぶタイプだ。多少のことは覚悟しておいてほしい」
「多少……と、言いますと?」
そういう中年期以降の男性は少なくない。敢えて伝えて来るとは、許容範囲を超えているということか。不安になって尋ねた。
「さすがに犯罪まがいのことはしない。ただ、多少触られたりするくらいで過剰な拒否反応をしないでほしいんだ。とにかく今回の案件では一番大切な相手だからな。決して不快にさせることのないように」
触られる……。
先輩たちからも接待での逸話はいくつか聞いたことがある。商社で営業職についている以上、多少のことは覚悟しなくてはいけないとはわかっている。分かっているが不安にもなる。
「今回のこの案件。九条君がどれだけ力を入れているか君もわかっているな? 今後の大きなプロジェクトに直結するものでもある。失敗したら、九条君のキャリアに傷がつくだろう。君も九条君にそんなことにはなってほしくないだろう?」
「はい」
課長の実績に関わる――。
「どうか、九条君を助けてやってくれないか?」
「分かりました。精一杯やらせていただきます」
九条の役に立てるなら、多少のことは我慢できる。新人の慣れていない女の子でもない。仕事として割り切ればいいだけだ。