冷徹上司の氷の瞳が溶ける夜


「……さすがにここでそのまましてしまうわけにはいかないからな」

唇が離れると、一人呼吸を乱しているのを上から見下ろされた。そうして、九条が意地悪な口調で囁く。

「この先は次回の楽しみにとっておく」

翻弄されてドキドキさせられて。その手のひらの上で転がされているような気がする。

「これ以上ここにいると、楽しみにとっておけなくなりそうだから。もう帰るよ」

そんなことを、余裕そうに微笑んで言った。


「今日、帰国されたんですよね?」

玄関先で九条を見送る時そう尋ねた。

「空港から直接ここに来たんだ」

靴を履き終えた九条が麻子に向き合うように立つ。

「明日からまた仕事だろ。君の顔を見ておこうと思って」

ただ顔を見るためだけに、来てくれた――。

「それと、これ」
「なんですか?」

小さな紙袋を渡される。

「パリ土産だ」
「私に?」
「気に入るといいが」
「課長からなら、なんだって嬉しいに決まっています」

こんなにも、嬉しさの洪水でどうにかなりそうなのだ。黒い箱から中身を取り出した。

「――これ、香水ですね?」

シャープなイメージのデザインのボトル。おそらく高級ブランドのものだ。その高級感と大人な雰囲気に見入ってしまう。

「もし、君の好みに合えは使ったらいい」
「香水なんて一つも持っていないので、これから使ってみます。ありがとうございます」

喜ぶ麻子に頷くと、「じゃあ、また明日」と言って九条は帰って行った。


 一人になっても胸の鼓動は収まらない。

 初めて触れた九条の唇の感触がまだ鮮明に残っている。

 このまま消えないでほしい。

 抱きしめる手のひらも腕も、九条から与えられたものは全部この身体に残しておきたい。


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