出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
 カツン、とヒールが道路を蹴る音が聞こえる。美しい艶のある黒いハイヒールには傷一つなく、堂々と歩くその人の足元を飾っていた。

「えっ? なんで?」

 さすがに糸井も、『もう別れた』と聞いていた龍の交際相手が現れたことに驚いたのだろう。思わずそんな声を上げていた。

「ちょっと。そこのあなた」

 立ち尽くす二人の前まで来ると、瞳子は機嫌の悪さを隠そうともせず呼びかけた。それは糸井に、ではなく実乃莉に向かって。

「……はい」

 何を言われるのだろうかと、身構えながら実乃莉は返事をする。

「名前、教えなさい?」
「鷹柳、……です」

 恐る恐る苗字だけ答えると、それを聞いた瞳子の表情が歪んだ。

「やっぱりそうだったのね。信じられない、こんな小娘が」

 あきらかに敵意に向けられ体が震えそうになる。険しく歪ませた美しい顔は、実乃莉を睨みつけたまま次の言葉を発した。

「龍と同じ政治家の家の娘だからっていい気にならないでちょうだい。人のものを奪ったツケは払ってもらうわよ」

 何一つ言い返すことができず、実乃莉は呆然とその顔を見つめたまま固まっていた。
 渡るはずだった信号は赤になり、歩行者が近くに止まり始めると、車のクラクションが短く鳴る。それに促されたように瞳子は踵を返すと開けっぱなしだった後部側の扉に向かった。
 そして、瞳子は実乃莉をひと睨みすると車に乗り込み扉を勢いよく閉めた。車道の信号は青になり、瞳子を乗せた車は目の前を走り去った。

「大丈夫……? 実乃莉ちゃん」

 糸井に呼びかけられ、実乃莉はよくやく我に返った。

「だ……いじょう、ぶ……です」

 心配そうに実乃莉を見ている糸井になんとか返すと、糸井はホッと息を吐く。

「瞳子さん、凄い迫力だったね。その……」

 糸井は言いづらそうに口篭る。瞳子が言ったことが気になるのだろう。

「瞳子さん、きっと何か思い違いをされてるんですよ」

 実乃莉がわざとらしく明るく言うと、糸井はまだ半分信じていないような表情を見せた。

「う……ん。でも、このこと、龍さんには伝えといたほうがいいよ」

 いまだ心配そうに自分を見ている糸井に実乃莉は頷く。

「はい。そうします」

 そう答えながらも、実乃莉の頭の中は、なぜ? と言う疑問でいっぱいだった。
 なぜ、近しいものしか知らないことを瞳子が知っているのだろうかと。
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