甘い罠、秘密にキス
「…もしもし?」
『伊織?お疲れ』
桜佑の声は、酷く穏やかだった。会社での彼とは違う、微かに甘い声音に、心臓がドキッと跳ねる。
毎日会っているにも関わらず、なぜか久しぶりに声を聞いたような気分だった。ドクンドクンと心臓が波打って、少し緊張している自分がいる。
『ドリンクありがとな。メッセージ見なくても、お前からってすぐ分かった』
「いえいえ。むしろそれくらいしかしてあげられなくてごめん。ていうか、わざわざそれを言うために電話してくれたの?」
『いや、それを口実にお前の声が聞きたかっただけ。伊織に癒してもらおうと思って』
電話越しでもわかる。いま悪戯っぽく笑ってんだろうなって。
甘い桜佑にはだいぶ慣れてきたはずなのに、今日はいつにも増して胸がきゅうっと苦しくなる。気持ちが沈んでいたはずなのに、不思議と心が軽くなっていく。
ていうか、桜佑ってこんなにいい声してたっけ。
「もう家に帰ったの?」
『うん、いま帰ってきたとこ』
「ご飯は?もう食べた?」
『いや、これから。何食うかなー。昨日お前がくれたゼリーでもいいな』
「もっとしっかり食べなよ。倒れるよ」
なぜか母親のように必死に話しかけている自分に、違和感を覚えてしまう。
もしかして私、電話が終わらないようにわざと話題を振ってる?
『だったら、伊織が飯作りに来てくれる?』
「えっ…」
唐突な誘いに、思わず言葉を詰まらせる。数々の失敗作を食べさせてきた私に、再び料理をさせようとするのだから、この男はもはや勇者だ。
いやでも、彼にとっては味なんて関係なくて、ただ誰かと食卓を囲みたいのかもしれない。きっと疲れも溜まっているから、そういう癒しを求めているのかもしれない。
だとしたら、私は…。
「わかっ…」
『おい黙んなよ。嘘に決まってんだろ、本気にすんな』
「…ですよね」
“分かった”と言いかけたけれど、それを遮るように桜佑が口を開いたから、出かかった言葉は途中で飲み込んだ。
普通に考えて、こんな時間から外出するなんて面倒な話だ。行かなくて済むのだから、ここは喜ぶところ。それなのに、なぜかショックを受けている自分に困惑する。
会えないのが寂しいなんて、どうかしている。
『こんな時間にお前を呼ばねえよ。会うとしたら、俺が行く』
優しい言葉を掛けられ、また胸がきゅっとした。にやけそうになるのを、なんとか耐えた。
今日の私、情緒が不安定過ぎるぞ。