甘い罠、秘密にキス

『伊織?悪い、待たせた』


桜佑の声にハッとした。慌てて「おかえり」と返した声は、無駄に大きくなった。

このモヤモヤした気持ちを悟られないよう明るく返事をしたつもりが、逆にわざとらしくなってしまった。


『声聞こえた?誰かと思ったらマーケティング部の井上さんだったわ』

「あ、うん。なんとなーく聞こえたけど…何かあったの?大丈夫?」


本当は全て聞こえていたくせに、咄嗟に嘘をついてしまった。途端に罪悪感を覚え、背中に冷や汗が伝う。


『トイレの電球が切れたらしい。届かないから代わりに交換してくれだって』

「そ、そうなんだ。助けてあげなくていいの?」

『さすがに親しくない女の部屋にひとりで入んのは抵抗あるからな。それに、今はお前と電話してるし』


だから大沢に頼むように言っといた。そう続けた桜佑は『それよりなに食うかなー』と独り言を呟きながら冷蔵庫のドアを開けた。

井上さんの気持ちを知らない桜佑は、呑気に『昨日のおかゆ残しておけばよかった』とケラケラ笑っている。

そんな彼を余所に、“親しくない”の言葉にほっとしている自分がいた。


「…こういうことって、よくあるの?」

『え?』

「社宅に住む人が、他の社員の部屋に会いに行く、みたいな…」


唐突な質問に、桜佑が戸惑っているのが分かる。それを察して、私の声も尻すぼみになる。

だけど、どうしても気になって質問せずにはいられなかった。

今日たまたま電話をしていたから知っただけで、井上さんは以前からさっきみたいに桜佑の部屋に来ていたのかもしれない。

桜佑がこっちに異動してきた日から、ずっとアプローチしていたのかもしれない。

そう思うと、胸が押しつぶされそうになった。


『いや、今日が初めて。まぁ俺はまだこっち来て日が浅いからよく知らないだけで、他の人は行き来してんのかもしれねえけど』

「そっか…そうだよね」


“今日が初めて”
その一言で、随分と心が軽くなるのを感じた。

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