甘い罠、秘密にキス
「呼び止めてすみませんでした。では」
「待って伊織」
視線逸らしたまま軽く会釈をして、踵を返そうとした時だった。
会社の中だというのに下の名前で呼び止められ、思わず目を見張った。
「何か用があって声を掛けてきたんじゃねえの?」
「えっ、いや…」
鋭い指摘に、視線は泳ぎ、声が上擦った。不意打ちの名前呼びで動揺が隠しきれず、咄嗟の言い訳が思い浮かばない。
「何か伝えたいことがあったはずなんですけど…忘れてしまいました。気が緩んでる証拠ですよね、すみません。それよりも日向リーダーは伊丹マネージャーのところへ…」
「お前、今晩暇してる?」
「……え?」
私の声を遮るように口を開いた桜佑。まさかの誘いに、弾かれたように顔を上げる。
「お前の部屋に行ってもいい?」
「……」
「それか飯を食いに行ってもいいけど」
どうしてこのタイミングなんだろう。さっきまでの私なら、喜んで首を縦に振っていたのに。
「…えっと…今日は…」
「…予定あり?」
「うん、ちょっと…」
不自然なくらいぎこちなく言葉を紡ぐ私を見て、桜佑は怪しんでいるのか射抜くような目でじっと見つめてくる。
その圧に耐えきれず、やっぱりOKしようと口を開きかけたところで、どこからかバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「あ、日向リーダーこんなところにいた!」
2人揃って声のした方へ視線を向けると、息を切らしながら駆け寄ってきたのはスピーカー男の大沢くんだった。
よりによって大沢くんにふたりでいるところを見られた!と慌ててスンと真顔になった私に見向きもせず、大沢くんは桜佑を視界に捉える。
「山根が発注ミスして、いまオフィス内が大騒ぎになってますよ!」
「え?発注ミス?」
「明日納品のものを、来週と勘違いしてたみたいで。さっきクライアントから確認の連絡があって、もう大パニック」
山根くんとは今年度に入社したばかりの、まだ新人社員。状況を理解した桜佑の表情が、一気に仕事モードへと切り替わる。
「とりあえず急いで来てください」と踵を返した大沢くんの後を桜佑は駆け足で追っていく。
私もふたりに続くようにオフィスへ戻った。