甘い罠、秘密にキス


オフィスの中は大沢くんの言った通りザワついていて、バタバタと対応に追われていた。いつも気だるげにしている伊丹マネージャーでさえも忙しそうに動き回っていて、山根くんの顔は真っ青になっている。


「いまの状況は?」


桜佑が山根くんと伊丹マネージャーのところへ行くと、早速話し合いが始まった。こんな時でさえ冷静な彼の横顔を、思わずじっと見つめてしまう。


「なんだか大変なことになってますね」

「…うん」


私の隣で足を止めた川瀬さんが、そっと耳打ちしてくる。彼に視線を向けたまま静かに頷くと、川瀬さんは「山根くん大丈夫かなぁ」と呟きながら眉を下げた。


「とりあえず私達は自分の仕事をしなきゃだね。同じミスが起きないように気を付けよう」


自分の言葉に、思わず苦笑してしまう。ここ数日、恋に浮かれてぼーっとしていたのは他の誰でもなく私自身だから。

少し冷静になろう。桜佑と接すると平常心を保てなくなるのなら、必要最低限の会話以外は控えて、慣れるまでなるべく彼を遠ざたらいい話だし。

噂の件は…とりあえず気にしない。
そんなことより集中、と自分に言い聞かせながら自席に着く。


「佐倉、ちょっといいか」


集中しようと決めた矢先に、また桜佑の声。こういうの多いな、と心の中で呟きながら「はい」と振り返る。


「これから山根と謝罪に行くことになったから、ここでの対応をお願いしてもいいか?とりあえず佐倉はシステム部に掛け合ってほしい。詳細は伊丹マネージャーに聞いて」

「分かりました」


事務的な会話だからか、なんとか落ち着いて出来た。この調子だ、と自分を褒めつつ、伊丹マネージャーのところへ向かうため席を立つ。


「あと、これ」


すると囁くような声が鼓膜を揺らし、さりげなく渡された付箋に視線を落とした。

“今日は帰れそうにないから、さっきの件はなかったことにして”

桜佑の字で書かれた、短いメッセージ。
その文章を読んでほっとする反面、やっぱり少し寂しいと思う自分がいた。

冷静にトラブルに対応する桜佑が、格好良く見えてしまう。………好きだ。

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