甘い罠、秘密にキス
「もう全然気にしてないから、別に過去のことなんてどうでもいいんだけどさ。でもそんな方法じゃなくて、今みたいにちゃんと好きって伝えて欲しかったな」
意地悪っぽく言って、いつもの空気に戻そうと思ったのに。なぜか眉を下げて力なく笑う横顔を見て、胸がチクッと痛んだ。
「これを言ったら言い訳になるけど…あの頃の俺は、愛情表現の仕方を知らなったんだと思う」
その寂しげな顔には、やっぱり理由があった。彼が抱えている、胸の奥の小さな闇の部分だ。
「物心ついた時には家庭は崩壊してて、両親の仲が良いところなんて見たことがなかった。それに加え、親父はギャンブルに明け暮れて、俺のことは放置だし。親からの愛情をもらった記憶が、ひとつもねえんだよな」
滅多に話さない、家庭のこと。
桜佑は冷静に、淡々と紡いでいるけれど、私にはなぜか心の叫びのように聞こえた。
複雑な家庭環境で育った幼い頃の彼には、シンプルに「好き」と伝える愛情表現の仕方なんて、分からなかったのかもしれない。
だって桜佑自身が、両親からその言葉をもらっていなかったのだから。
「…ごめん、私…」
「でも、だからこそ俺にとって伊織の家族が何よりも大事だった。ただ、俺があの親父の息子であることには変わりないから…だからおばさんに“あの男とは違う”っていうのを証明したくて、勉強もスポーツも、そして仕事も頑張ってきたっていうのはある」
「桜佑…」
──俺の原動力は、全部お前だから。
いつだったか桜佑が言っていた。その言葉の意味が、何となく分かった気がした。
桜佑の、深い深い愛の形。
愛情表現の仕方を知らなかった彼の、精一杯の気持ち。
「…桜佑、ほんと好き。どんどん好きになってく」
「ばか。こんなとこでそういう事言うな」
我慢出来なくなるだろ──そのムスッとした顔も、また愛しい。
ここが電車の中じゃなかったら、きっと今すぐキスしてた。