甘い罠、秘密にキス

「で、どうしたの?」

「え?」

「え?って、さっき私のこと呼んだでしょ」


何とか完成したらしい卵焼きをまな板の上に乗せた伊織が、ふう、と息をつきながら横目で俺を捉える。


「…別に何でもない」

「なにそれ。変なの」

「必死に頑張ってるお前見てたら、なんか声掛けたくなった」

「なるほど。またそうやって集中してる私の邪魔をしようとしたってことね」

「じゃあそういうことにしとく」

「…?ほんと変なやつ」


決して綺麗とは言えない、歪な形をした卵焼き。若干焦げている部分もあるけど、それでも美味しそうに見えるのは、伊織が作ったからなのだろうか。

長くて綺麗な指が、包丁を握る。包丁の扱い方がまた危なっかしくて、思わず監視するように見てしまう。


「指切るなよ」

「もう、桜佑は心配性なんだから」

「心配するだろ。怪我してほしくねえし」

「ふふ、ほんと優しいなあ。でも大丈夫、お料理レベルもそのうち桜佑に追いつくから」


お料理レベル()の“も”ってなんだよ。今まで何に対しても追いつかれた記憶はねえぞ。

でもそうやってムキになるところが伊織らしい。

これから先もずっと、こうして俺の弁当作ってくれんのかな。控えめに言って最高なんだが。


「上手に詰められるかなー」


独り言を呟いた伊織の手元には、6等分にされた卵焼きがある。全然均等じゃないけど、そこがまた可愛い。


「なぁ、味見したい」

「ダメダメ。お弁当に入れる分がなくなっちゃう」

「この切れ端ならいいだろ」

「あ、こら!」


卵焼きの切れ端を指で摘んで口に放り込むと、“ダメ”と言っておきながら伊織は心配そうな顔で見つめてくる。その子犬みたいな仕草が、また可愛くて危うくキスしそうになった。


「美味いよ。上手」

「ほんとう?」


やった。と小さくガッツポーズをする伊織を見ていたら、やっぱり耐えられず。隙だらけのその頬に触れるだけのキスをすると、不意をつかれた伊織は顔を赤くして「バカ、キッチンは危ないでしょ」と呟いた。


「可愛いな」

「からかわないで」


そう言いながらも口元はにやけていて、喜んでいるのが分かる。昔の俺も、こうして素直に言葉に出来ていたら、もっと伊織の笑顔が見れたのだろうか。


ほんと、バカなことをした。




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