おともだち
 一人、二人思い出してみるけど、そんな対象で見たことが無かったのでピンとこない。現実に戻って“いない”と言おうと宮沢くんに焦点を合わせる。距離と息を吞むような顔立ちに耐え切れず、私はまた会社の廊下を歩き始めた。逃げる(トリップ)するしかない。脈拍を上げたまま総務に戻って一息。

 主任の顔が浮んだ。上司でありながら私たちともそう年齢が離れていないので、確か30代前半。話しやすいし、少し癖の強い課長との間にちゃんと入ってくれるし、ほっこりする人で見た目も、人のよさそうな……。

「辰巳主任」
「……は? 」
「辰巳主任、好きです。見かけるとほっとする」
「へえ」
「うん」
「あのさぁ」
「うん? 」
「俺も一応、“会社の人”なんだけどね」
「え……」

 一気に顔に血が巡る。血圧が……。上がりそう。

「うん。どう? 」
「ど、どうって……」

 宮沢くんは私を見つめたままさらに距離を詰めた。

「随分と自分に自信があるのね」
 わずかに声が震えたが、余裕ぽく見せたくて極力動揺が伝わらないように努めた。

「いやさ、普通俺を含む条件で好みを聞かれたらさ、お世辞だとしても俺って返さない? いいんだけどさ、別に。酒の席ではそういうのが無難なんじゃないの」
「無難……」

 確かに、社内でって言われたら『宮沢くん』て答えるのは無難なのかもしれない。彼って言っておけばみんな納得して突っ込まないだろうし、リアリティもない。()()には違いない。宮沢くんが思ってるのとは違う意味だろうけど。

「ふっ」
 宮沢くんは吹き出し、息が私の前髪にかかる。少し傾けた顔に今度こそ覚悟を決める。

 が、いつまで経っても彼の唇が重ねられることはなかった。密着していた体は離され、彼は宣言通り使ったグラスを洗い始めた。彼の体温を失って、何だろう涼しい……んだけど、引き留めたくなるような気持ちになった。

「あ、洗いもの、いいのに」
「うん。悪い、遅くなっちゃったな。平日だし今日は帰る」

 ぴっぴっと手の水分を弾きながら彼は言った。

「じゃね。続きはまた今度」

 呆気に取られている私を前に彼は帰って行った。拍子抜けするくらい、あっさりと……。

 へえ?何これ。続きって、何もしてないよね。
 
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