あなたの部屋で
浮いた話
 私が一番気になったのは、手塚さんを、手塚くん、と呼ぶところだ。

 手塚さんの部屋に、以前の仕事仲間だという女性が来ていた。確かに、すごく感じのいい人だ。ショートカットで、はつらつとしていて、笑顔がキュートで、手塚さんと何やら専門用語で対等にやり取りしている。外国語を聞いているような気分だった。
 手塚さんは、私のことを「大家さん」と紹介してた。うん、確かに私は「大家さん」だ。来客中なので帰ろうとしたのだが、もうすぐ終わるからそこで待ってて、と手塚さんが言うので、私はいつものソファに座って待っていた。その女性はモニターの山の中に入り、手塚さんの隣に立って何やら話し込んでいる。

 彼女は以前、同じ会社にいたそうだ。どんどんキャリアアップしてるらしい、と手塚さんは言う。
 「俺はやりたいことだけ好き勝手にやる方に進んできたけど、彼女はとにかく上に登りたいんだな。」
 そんな彼女は、仕事の相談で来たのだそう。転職も考えているので、それも合わせて相談に来たそうだ。

 私が二番目に気になったのは、どうして手塚さんに相談するのかってとこだ。

 手塚さんが専門家だから?
 まあ、そうなのかも知れないけど。

 「あ、じゃあ手塚くん、またね。」とその人は帰って行った。
 「ああ。」と手塚さんは返事をした。

 そんなわけで、私は最高に毛羽立っていた。
 それで、来週、前の道でガス管工事があるため一時的にお湯が出なくなります、と要件だけ告げて帰って来た。
 四階に戻って、冷静になって、ああ、何かめちゃくちゃカッコ悪い、と頭を抱えたときだ。玄関のインターフォンが鳴った。まさか手塚さん?と慌ててモニターを見に行った私は、瞬間、落下して行く浮遊感を現実のものとして味わった。視界から手塚さんが消えた。私の目に映っていたのは、一年前に私が居た世界から来た人だった。


 スマートフォンが鳴ったことに気づき、私はのろのろと頭を上げた。ライトの灯った画面を見ると、「下りてくれば。」の文字が浮かんでいた。窓の外を見る。もうそろそろ日が暮れる時間だった。

 「何かあった?」
 「え…どうして?」
 「大家さんが上に戻って少しして、誰かが四階に上がって行った。その人はしばらくして下りてきた。それから何時間経っても大家さんは下りて来ない。それで呼び出してみたら、そんな顔してる。」
 「…どんな顔?」
 「何かあった顔。」
 鏡、見てから来れば良かった。自分でも思う。きっと私、今、ひどい顔してる。うん?と言って、手塚さんは私の隣に座った。そして、
 「俺に、言えないこと?」
 と弱っている人間の核心を気軽に突いてきた。この人のこういうところは、どうしたもんかと思う。とにかくそれでもう、私は戦意喪失した。
 「…言えないこと…っていうか、…言いたくない、こと?」
 でも力を振り絞って精一杯の抵抗をすると、ふうん、なるほどね、と手塚さんは頷いて、
 「うん、じゃあカテゴリーとしては言えることじゃん。」
 と言った。
 「…ああ、そっか、じゃあ言えるね…じゃないよ。」
 私は力なく笑った。そんな私を見て、なんだ、意外と大丈夫そうだね、と手塚さんは笑うと、言った。
 「まあ、とにかく言ってみ?…大家さんがこのビルに戻って来たことに、関係あるんだろうけど。」


 「…ずっと聞きたかったんですが。」
 部屋に招き入れ、そちらにお座りくださ、と言いかけた私の言葉を遮り、私の元婚約者の母親は立ったままでそう言った。
 「うちの息子の何が気に入らなかったんでしょうか。」
 その表情に、怒り、というよりは、疲弊を感じた。その姿を見て、私はやっと思い知った。この人はこんな問いを、一年間繰り返してきたのだろうか。仕方のない状況だったとは言え、ずいぶんとお世話にもなり、可愛がってももらったこの人に何も言わず彼の元を去ってしまったことが、今更ながら悔やまれた。
 「…いえ、気に入らないなんて、そんなことは、」
 「では、なぜ?」
 私の言葉を待たずに畳みかけて来る様子に、私は更なる胸の痛みを感じた。ああ、もしかしたら、彼からも詳しいことは聞けずにこの一年を過ごして来たのかも知れない。
 「…別れて欲しいと言い出したのは、…和也さんでした。」
 はあっとため息をついて、彼女は言った。
 「やっぱり、そうですか。…そうなんじゃないかな、と思ってはいたんですが。」
 「…すみません。」
 「いえ、あなたが謝ることでは。」
 「私が、至らなかったこともあるんだと、思います。」
 「では、あなたとしては、その。」
 「…え。」
 「その、息子との復縁を考えていたりは。」
 「あ…。」
 彼女の目にかすかな光が宿ったのが見えたが、それはもう覆らない結論の出ていることだった。
 「それは…。」
 と私は目を伏せた。ああ、そうですよね、と彼女はまたため息をついた。そして窓の外に目をやると、小さく頷きながらそんな私の言葉を、ただただ受け入れようとしているように見えた。あの、お座りになりませんか。私の言葉に、やっと彼女は腰を下ろしてくれた、
 「…ああ、急にお邪魔してこんなこと、ごめんなさいね。」
 「いえ、いいんです。私こそ、ご挨拶も出来ずにこんなに時間が経ってしまいまして、失礼なことを…本当に申し訳ありませんでした。」
 私はそう言って頭を下げた。いえ、いいのよ、事情があってのことでしょう、こちらこそ申し訳ないことをしました、と彼女は言って、少し言葉に詰まった。そんな様子に、私の胸も痛んだ。この人にこんな思いをさせてしまったこと、その点だけを考えても、誰がいい悪いではなく、私も、それから私の元婚約者も、償いをしなければならない、と思った。どんなふうに詫びればいいのだろうか、今となって何の意味もないことなのかも知れないけれど、順を追って当時のことをお話しした方がいいのだろうか。私がそんなことを考えていたときだ。彼女が言った。
 「…息子が…。」
 「…え。」
 「和也が、大学を辞めると言い出しまして。」
 「大学を?」
 それは思わぬ話であった。
 「ええ…。それでその…どこかへ行こうとしているらしくて。」
 「…どこか…と言いますと。」
 「うーん、それが詳しいことは言わなくて。…何でしょう、あなたが居なくなってから、私たちもほとんど話さなくなりましてね。」
 「ああ…。」
 力なく彼女は言った。少し動いた表情は、おそらく笑顔を見せようとしたのだろう。
 「こんな曖昧な話、ごめんなさいね。和也ももう、大人ですから。私が口出しすることでないのは良く分かっています。私がこんなことしてるからいけないんだ、だからあなたも離れて行ってしまったんだ、と思ってはいるんですが…。」
 「あ、いえ、そういうことでは。」
 「ただ、あなたのことで、何て言うんでしょう、自棄になっているから、そんな行動に出ているんじゃないか、って気もして。そうだとしたら、一時の気分で大学の仕事を捨てて、後悔することになるんじゃないかと心配で…。」
 「…はい。」
 「あなたもご存じだと思いますが、今の大学に移るときにいろいろあったでしょう?でも、ここでなら自分のやりたいことが出来るから、って和也も喜んでいたはずなんです。」
 「ええ。…それはそうですね、確かに。」
 それで、と元婚約者の母は言葉を切った。そして大きく息を吐き出すと、居住まいを正し、思い切ったように言った。
 「…あなたに頼むことではないのは承知しております、でも他にお願い出来る方もいなくて…復縁は無理でも、仕事については思い留まるよう、あなたから説得してもらえないでしょうか。…辞める理由があるならいいんです、ちゃんとした、理由があるなら。」


 「その母親の言う通りだ。大家さんに頼むことじゃない。」
 一刀両断、の力強い四文字が浮かんだ。
 うん、と私は頷いた。手塚さんに話して、どうなることでもない。それは分かっている。ただ、聞かれたくなかった。こんな、話。でも、何となく分かっていたんだろうな、とも思った。手塚さんは私の話を聞いていて、どこにも驚いた様子はなかった。そして私も、彼がやっぱり分かっていたんだなということに驚きはなかった。
 「それにしても。」
 と手塚さんは言った。
 「大学の先生だったんだ、大家さんの、その…婚約者。」
 「元。」
 「ああ、元。」
 「うん。」
 「専門は?建築?」
 「ううん、美術史。元々は、取材でその大学の建築学部の先生に会ったの。調べていた建物の意匠について、美術史の先生に聞いてみたらってことで紹介されたのが、つまりその人。」
 「なるほど。」
 私はもう諦めのような気持ちで、聞かれたことに無抵抗に答えていた。うんうんと手塚さんは頷いている。私はもう、手塚さんの顔を見られなかった。手塚さんは、腕を組んだり、それをほどいたり、頭を掻いたり、前後に揺れたりしていたが、あ、そうだ、と言って席を立った。パタン、とドアの閉まる音がしてそちらを見ると、彼は仕事場から居住スペースの方に行ったようだった。帰っちゃったのかな、と思っていたら、ちょっとして、手に缶ビールとグラスをふたつ持って戻って来た。そしてまた私の隣に座り、カシュッとビールを開けた。
 「手塚さん、私、」
 と言うと、
 「いいから。ちょっと付き合えよ。」
 と彼は言って、ふたつのグラスにビールを注ぐと、ひとつ手に持ち、もうひとつを私に手渡した。そして、
 「乾杯。」
 と私のグラスに自分のグラスを当てた。
 「…。」
 じっとそのグラスを眺める。データベースさんと飲みに行った日のことを思い出した。あのときは、手塚さんのこんな仕草を見て、何だかぽあぽあした気分だった。それが今はどうだろう。こんなガッサガサな気分でビールを手にしたことは未だかつてない。砂漠を転がってるあの草よりもガッサガサなんじゃないだろうか。まあ飲めって、と手塚さんに促されて、仕方なく私は細かな泡の立ち昇るその琥珀色の液体を口に含んだ。
 「…くーっ…。」
 「沁みちゃった?」
 と手塚さんは笑った。
 
 「…それで、別れたのが…ここに戻って来た頃?」
 建築関係の雑誌のライターをしていた話なんかはしたことがあったけど、事情が事情だけに、私もあまり詳しくは話していなかった。そして彼にも、私が話す以外のことを聞かれたことはあまりなかった。今日の手塚さんは、もういろいろ聞いてしまうことにしたみたいだった。
 「うん…まあ、その少し前。」
 「そうか。…っていうと、去年の春くらい?」
 「うん。」
 「どのくらい、付き合ってたの?」
 「えーっと、三年弱。」
 「歳は?」
 「相手の?」
 「うん。」
 「私の六個上。」
 「じゃあ俺よりもちょっと上だな。」
 「だね。」
 「なんで…別れた?」
 「うん…まあ、それもはっきりしないと言えばしないんだけど。」
 「そうなの?」
 「そもそも結婚も…二年経った頃に、そろそろかな、っていうような話で。」
 「うん。」
 「そこから準備を始めたんだけど、うーん、ケンカしたとかそういうことではないんだけど、途中から何となく滞ってきて。それで、上手くやって行く自信がない、と向こうが言い出して。」
 「うん。」
 「まあ、そこからは何を聞いても、上手くやって行く自信がない、の一点張りで。それで私も折れた。…まあ、何か気に入らないことがあったとか、面倒になったとか、そんなことかも知れないけど。」
 「なるほどね。」
 口にしてみると、良くあるような空っぽな話で、面白くも何ともないエピソードだった。笑ってもらうことすら出来ないなあ、なんて私は考えていた。
 「…手塚さん?」
 「ん?」
 「ビール、もっとある?」
 手塚さんは私の頭に手を置いて、あるけど、今日はもうやめておきな、と言った。
 「だって…。」
 「俺は、大丈夫だから。」
 私は顔を上げた。
 「…え?」
 構わず彼は続けた。
 「それで、今日、来た人だけど。」
 「あ、うん。」
 「その人の母親?と大家さんは、上手くやってたの?」
 「ああ、うん。そうだね。可愛がってもらった、って感じだね。お姑さんになるから、とかいうことでなく、何て言うんだろうね、人生の先輩としてとでも言うのかな。いろいろ教えてくれて、本当に良くしてもらった。優しい人でね。」
 「そっか。」
 「だから、こんなことになって、うーん、仕方ないんだけどね。お母さんに対してだけは、申し訳ないと思う。お父さんはもう亡くなってて。だから、家族が増えること、多分楽しみにしてくれてたんだろうから。」
 「そっか。」
 「…。」
 「…。」
 「…。」
 「…大家さん?」
 「ん。」
 「何考えてる?」
 「…手塚さんさ。」
 「うん。」
 「お母さんと良く話したりするの?」
 「誰の?俺の?」
 「うん。」
 「いや、年に一回話すかどうか。」
 「年に!?」
 「ごめんなさい。」
 「まあ、多分さ、男の人って、そんな感じなんだろうね。」
 「かもね。」
 「…。」
 「…。」
 「…。」
 「…大家さん?」
 「ん。」
 「何考えてる?」
 「…。」
 「…。」
 「…。」
 「…ああ、もう、分かったよ。じゃあ、聞いてみれば。」
 「何を。」
 「気になってるんだろ、その、元、婚約者の母親に頼まれたこと。」
 「でも…その、元、婚約者に連絡…取るの?」
 「あ、いや、それは、うん。…あ、そうだ、その最初にコンタクト取った建築学部の先生に、しとけば。」


 次の日から、私は何となく手塚さんの部屋に行きづらくなってしまった。行きづらいというよりは、行きたくない、という感じだろうか。また顔を合わせて元婚約者の話をするのも嫌だし、しないならしないで、きっとそんな不自然な空気には耐えられないだろう。下手に気を使っている手塚さんも見たくない。かといって上手に気を使っている手塚さんも見たくない。婚約者がいた私も見られたくない。婚約者に逃げられた私も見られたくない。そんな私を見る手塚さんも見たくない。手塚さんは、ときどき連絡をくれた。でも私は、買い物に行くところだ、とか、今日はもう寝てる、とか、そんなどうしようもない嘘で逃げ続けていた。
 そんなとき、地元の友人たちとの飲み会に参加することになった。ここに戻って来てから、事情が事情だっただけに、あまりみんなと会えていなかったのだけど、山田が声をかけてくれたのもあり、そして今は出掛けられるなら何だっていい気分だったというのもあり、行ってみることにした。こういう集まりは本当に久しぶりだったけど、ああ地元に帰って来たな、という感じがして、本当に楽しかったし、ほっとした。こうして気の置けない友人たちと会う機会っていうのは、人生のチェックポイントみたいだな、と思った。今、お前はどうよ?幸せ?大変なとき?苦しいとき?最高に調子に乗ってるとき?そんなふうに問いかけられているようだった。そしてそれがどんな答えであっても、この人たちは受け入れてくれるんだろうな、そんな感じがして、私はゆるゆるときつい紐をほどいたような、砂浜で裸足になったような、そうしてリセットされたような解放感で、帰る頃にはすっかり心が軽くなっていた。
 「今日は誘ってくれてありがとうね。」
 「うん。」
 帰り道、私は途中まで山田と一緒だった。
 「あ、そういえば、手塚さんとはどうよ。」
 「どうとは。」
 「なんだ、進展なし?」
 「…まあね。」
 「相変わらずどんくさいね。」
 「うるさいよ、山田のくせに。」
 「その山田に先越されてますよ。」
 ふたりして笑った。すると、
 「ああ、そう言えば」
 と立ち止まった山田が、
 「昨日、その手塚さんに会ったんだよ。」
 と言った。
 「そうなの?」
 「駅でね。仕事だったみたいだけど。」
 「うん。」
 「そんで、今日の飲み会の話した。あいつも参加します、って。」
 「…ふうん。そっか。」
 そう呟いた私を肘でこづくと、山田はにやっとして言った。
 「酔ってて危ないようなら、帰りは頼みます、って言ってたよ。」
 「…手塚さんが?」
 「婚約破棄か何か知らんけど、お前、いつまでもヘコんでて、ふてくされてんじゃないぞ。はい、じゃあ俺はここまで。責任は果たしたから。」
 じゃあな、と帰る山田に、うん、と手を振って、私は歩き出した。
 
 見上げると、月が出ていた。
 頬を刺す冷たい風も、今は気持ち良かった。
 あ、そうだ、とスマートフォンを取り出した。
 メールをチェックする。
 「あ、返信来てる。」
 私は足を止め、ガードレールに腰掛けると、白く光る画面を目でたどった。

 「…あれ?手塚さん?」
 私がビルの前まで来たとき、入り口の横の壁にもたれている手塚さんに会った。
 「あ、ああ…大家さん。」
 「どうしたの?出掛けるの?」
 「あ、…うん。」
 「コンビニ?」
 「…そう。」
 「そっか。行ってらっしゃい。」
 「え?」
 「ん?コンビニ行くんでしょ?」
 手塚さんは手ぶらだった。
 「いや…もういいや。」
 「ふうん。」
 「あ、おかえり。」
 「うん。ただいま。」
 これは、さすがの私にも、分かった。

 「…さっき、返事が来てた。私たちの顛末は聞いてたみたい。近況について教えてくれた。元、婚約者の。大学を辞めようとしているって話は確かに聞いているそうだよ。イタリアの…何て言ったかな、地方の都市の、美術館だか研究施設だか良く分からないところに移ろうとしているらしい、ってことも言ってた。」
 私は手塚さんにスマートフォンを渡して、そのメールを読んでもらった。
 「つまり、あの母親の言っていたことは本当だったと。」
 「みたいだね。」
 コーヒーでも飲んで行けば、と手塚さんが言うので、うん、と私は答えた。何日か来ていなかっただけの手塚さんの部屋だけど、とてつもなく久しぶりのような気がした。冷えた指先に、コーヒーカップが温かかった。
 「そっか。…それで、どうするの。」
 「ん。」
 「元婚約者の、母親に頼まれたこと。」
 「うん…。そうだね。どうするか。」
 正直、良く分からなかった。悩んでいる、というか、真っ白、という感じだった。思考が進まない、そんな感じだった。いろいろな材料がただぐるぐると鍋の中を回っていて、そこから何が出来るのか見当もつかない。その鍋をかき回す私の手に、意思がなかった。
 コーヒーカップを両手で包んだまま、私が考えあぐねていると、俺は思ったんだけど、と手塚さんが言った。
 「シンプルに、優先度の高いことを選んで行けばいいんじゃないかな。」
 「優先度の、高いこと?」
 「そう。今、大家さんにとって、一番大事なことは何なの。」
 「一番大事なこと。」
 …一番は…手塚さん…いや、そういうことを聞かれてるんじゃないよな、うん、大事なことか。
 「うーん…。大事なこと。」
 「うん。」
 彼の、お母さんの顔が浮かんだ。
 「…そうだな、償いたいってことかな。」
 「償う?」
 彼女が私を訪ねて来た日からずっと、あの悲しそうな顔が忘れらずにいた。
 「…あの人のお母さんに、償いたい。私は、恩を仇で返すようなことを、したんだと思う。」
 「そっか。」
 「そんで、それ以上でも以下でもない。」
 分かった。手塚さんは頷いた。
 「じゃあ、やるべきことは決まったね。」
 「うん。」
 私がそう答えると、手塚さんは、ちょっと考えてることがあるんだ、明日、ここに来られる?あれ、最近忙しいんだっけ?といたずらっぽい顔で笑った。全然忙しくない、と答えると、だろ、ったく、と私の頭をつついた。
 翌日手塚さんの部屋を訪れると、はい、と一枚のメモを渡された。
 「その大学で今年度、こんなような会社に内定した生徒がいるか、調べられる?」
 そこには、いくつかの社名が箇条書きで記されていた。それでまた私は、建築学部の先生に聞いてみた。すると、元婚約者のゼミにひとり、そのうちの一社に内定が出ている子がいる、という返事があった。私は手塚さんに知らせに行った。
 「うん。そうか。」
 「何なの、この会社は?」
 そう私が尋ねると、手塚さんは、もしかしたらというだけの話だけど、と前置きをして、考えていることを話してくれた。
 「…さて、それで、大家さん。」
 「うん。」
 「行くのかい?」
 「うーん。まあ、そうだね、行くか。」
 「今日?」
 私はコーヒーメーカーの上の壁に掛けられた時計を見た。まだ時間はある。
 「うん、とりあえず、行って来てみるよ。」
 「そっか。」
 「うん。」
 そう言って私はソファから立ち上がった。隣に座っていた手塚さんも立ち上がり、モニターの山に戻って行った。じゃあね、と部屋を出ようとした私に彼が言った。
 「分かった。一時間、いや、三十分待ってくれ。これだけ片付ける。」
 「え?」
 「俺も行く。」


 五〇一、とある部屋番号を何度も確認した。
 私と手塚さんは、研究棟の、元婚約者の研究室の前にいた。 
 「ここ?」
 「うん。」
 受付で連絡はしてもらっていた。緊張で頭が真っ白になっていた私をよそに、電話でやり取りしていた事務の人は、あ、大丈夫だそうです、研究室にいるそうです、とあっさり言った。
 いざここに立ってみると、体が急に動かなくなった。あの人に会って、何と言えばいいのだろう。あの人を見て、私はどうなってしまうのだろう。自分でも分からなかった。流されるようにして今ここに私は立っているけれど、私の中を覗き込んでみても、そこにあるものが良く見えなかった。引き返したい、それで何事もなかったかのように日常の風景の中に戻りたい。でも振り返ってしまったら、背後からずっとついてきている不安に飲み込まれてしまいそうだった。
 どこからか人の話し声が聞こえて、私はふと我に返った。そして、ただじっと黙って、私の隣に居てくれる人に気づいた。私は手塚さんを見上げた。ドアの前で止まった私を、手塚さんはただ待っていてくれた。彼は私を見て、小さく頷いた。それで、やっと心が固まった。手塚さんと居ると、何だか分からないけど、大丈夫だ、って私は思うのだ。
 私は部屋のドアをノックした。はい、と中で返事があった。ドアを開ける。久しぶりだね、と声がした。耳が、その声を記憶している、と思った。時間が急激に遡って行くようなめまいがした。大丈夫?と手塚さんの声がして、私は顔を上げた。開いたドアの向こうに、懐かしい笑顔があった。
 元婚約者は手塚さんを見て、驚いたような顔をして手を止めた。少し何か考えていたようだったが、何も言わず私たちを部屋に招き入れ、それから、ああ、まあ、座ってください、と私たちに椅子を勧めた。私が座ると、手塚さんは私の隣の席の後ろに立ち、
 「手塚といいます。突然すみません。彼女の、友人です。一緒に話をさせていただいても構いませんか。」
 と言った。元婚約者はそんな手塚さんを見てしばらく黙っていたが、そうですか、と小さく頷くと、
 「分かりました。どうぞ。」
 と言った。
 「失礼します。」
 と言って手塚さんも座った。私の向かいに、元婚約者は座った。

 「…元気そうだ。」
 最初に口を開いたのは、元婚約者だった。
 「うん。」
 と私は答えた。
 「それで、今日は?」
 「急に、ごめん。」
 「うん。いいんだ。」
 「実は、この間、お母さんが訪ねて来られて。」
 「母が…?」
 私は、彼のお母さんが来たときのことを話した。彼はじっと私の話を聞いていた。復縁について問われたことは言わないでおいた。私の話が終わると、
 「それは、済まなかった。」
 と詫びた。
 「ううん。…私も、お母さんに何も言わずにいて、…気になってはいたの。きちんと話をしておけば良かったと思って。だから、会いに来てくれたことは、良かったと思う。」
 「そうか。」
 つらそうな表情を浮かべた彼の顔が、彼のお母さんの顔と重なった。
 「それで…お母さんが言っていたことだけど…。」
 「ああ。…うん。」
 「仕事を辞める、というのは。」
 そう問う私に、
 「…うん。そうしようかと思っている。」
 真っ直ぐに私を顔を見て、彼は答えた。
 「…イタリアへ行くって?」
 「え?ああ…どうしてそれを?」
 「千堂先生に。」
 「そうなんだ。」
 「本当、なの?」
 「うん…ああ、そうだ。」
 「そうなんだ。」
 そう言うと彼は目を閉じ、大きく息を吸った。そしてそれを吐き出すと、ゆっくりと目を開けた。私は話を続けた。
 「これも、千堂先生に聞いたんだけど…その、半分ボランティアみたいなものらしいって。イタリアでの、仕事?それで、千堂先生も心配していて。これも、本当なの?」
 「はは…ボランティアか。…まあ、収入面で言えば、そういうことになるのか。」
 ふっと笑って、彼はそう言った。
 「お母さんもね、すごく、心配していて。やりたいことが出来る、って喜んでいた大学の仕事を、本当に辞めてもいいのかって。」
 「…。」
 「一時的な気の迷いで辞めるのなら、思い留まって欲しい、って。そう言っ」
 「一時的な気の迷いじゃ、ないんだ。」
 私の言葉を遮るように彼は言った。
 「…ですよね。」
 隣から、手塚さんの声がした。
 「もう、一年くらい前になりますか?それを考え始めたのは。」


 どれほどの時間が流れたのだろうか。ほんの数十秒のことなのだろうが、まるで何時間もそのままでいたような気がした。
 「…手塚さん、とおっしゃいましたか。」
 「はい。」
 「…それは、どういう?」
 「一年くらい前に仕事を辞めることを考え始めたのではないか、ということです。」
 「あ、いや、」
 「正確には一年くらい前に、イタリアのその街へ行くことを考え始めたのではないか、と僕は思っています。」
 「…。」
 そこから何かを読み取ろうとするように、元婚約者は手塚さんの顔を凝視していた。それからかすかに首を振ると、
 「その、街へ?」
 と渇いた声でそう尋ねた。
 「ええ。そうです。その街へ行くこと自体が、あなたの目的なのではないかと思っています。違いますか。」
 「こちらは、どういう人なの?」
 元婚約者は私の方を向くと、手塚さんの問いには答えずにそう言った。
 「えっ…と、手塚さんは…」
 「君の、…新しい、恋人なの?」
 「え!ああ、いや…」
 「そうなる可能性は否定しませんが、今のところは違います。」
 「あなたには聞いていない。」
 私に代わり答えた手塚さんに、元婚約者は押し殺した声でそう言った。
 「先生。教えてください。」
 手塚さんは引かなかった。
 「…何をだ。」
 「あなたの曖昧な態度が、彼女やお母さんを傷つけています。一年経った今でも、ふたりを苦しめていると僕は思います。だから、あなたのお母さんが彼女を訪ねたのが今であり、それに報いようと彼女がここに来たのが今なんです。どうか、ちゃんと話をしてくれませんか。彼女は逃げずにここへ来ました。もう、きちんと、終わりにしてくれませんか。僕は…俺は、そのために来たんです。」

 指先に痛みを感じて、私は膝に置かれた自分の両手に目を遣った。固く握りしめていたこぶしをゆっくり開くと、ぎしぎしと音が鳴るようだった。開かれると同時に、血液が流れ始めるのが分かった。ふっと力が抜けた。顔を上げると、眉間にしわをよせ、ぎゅっと目を閉じている元婚約者の顔が見えた。こんな顔をしていたかな、と思った。たった一年会わなかっただけなのに、もう知らない人みたいだった。…ううん、違うのかな。私がちゃんと見ていなかっただけなのかな。私はそんなことをぼんやり考えていた。
 「…なんだと、言うんですか。」
 元婚約者が、絞り出すように言った。
 「はい。」
 「私がその街へ行くことが、なんだと言うんですか。」
 手塚さんは、ええ、と答えると、言葉を切った。それから目を上げ、着たままだったネイビーのスプリングコートのポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルの上に置いた。そして、小さく深呼吸をし、話し始めた。
 「…あなたのお母さん、それから千堂先生は、あなたがなぜ気に入っているであろう今の仕事を辞めてしまうのか、なぜそうまでして別の仕事に就こうとしているのか、その別の仕事があなたにとってどれだけの価値があるものなのか、そこに疑問を感じていました。」
 静かな部屋の中で、手塚さんの低くて柔らかい声が、雪のように降り積もって行った。
 「『やりたいことが出来ると喜んでいた』仕事を辞め、『どこかの地方の都市』で、『美術館だか研究施設だか分からない』場所で、『半分ボランティアみたいな仕事』をする。おふたりはそんな表現をしていました。確かに、その仕事は、あなたにとっはて非常に価値のあるものなのかも知れません。それは否定しませんが、」
 そう言うと手塚さんはスマートフォンを手に取り、ロックを解除し、二、三度操作を繰り返すと、再びテーブルの上に置いた。
 「僕はもう少し、現実にありそうなストーリーを考えてみました。」
 「現実に。」
 はい、そう答えた手塚さんは、元婚約者にそのスマートフォン差し出した。
 「…このメールは、あなたについて千堂先生に問い合わせた際の返信を、転送してもらったものです。」
 元婚約者は、黙ってそのスマートフォンを手に取り、その文面を読んだ。
 「そこに、ある生徒の名前があります。」
 「…。」
 「彼女は、あなたのゼミの生徒だそうですね。今は四年生です。この春から、そのメールにある会社に就職することが決まっているそうです。もちろんご存じだとは思いますが。」
 元婚約者は何も言わず、手塚さんのスマートフォンをテーブルに戻した。 
 「ところで、こちらの大学では、三年生からゼミが始まるんだそうですね。」
 「…ええ。」
 「その生徒があなたのゼミに入ったのは、つまり約二年前のことです。その頃、あなたは…。」
 手塚さんは、私の手元に視線を向け、それをまた元婚約者に戻すと言った。
 「あなた方は、結婚の準備を始めた頃だと、そう聞きました。」
 「…ああ…。そう、なりますか。」
 「結婚の準備を始めたものの、ケンカしたわけでもないけれど、何となく滞り出した、と。やがてあなたは、上手くやって行く自信がない、という理由で婚約を破棄しました。」
 「…。」
 「その生徒は、それから間もなく四年生になりました。今どきは三年生あたりから企業にインターンに行くなどして就職活動を始めるそうですが、その生徒も、四年生になりすぐに内定を取ったんだと思います。これはその内定先の例年の傾向から推測しただけですが。」
 「…ええ。」
 「これが、つまり、あなたが仕事を辞めようと考え始めたのが一年くらい前だ、と僕が言った理由です。」
 「…手塚さん。」
 元婚約者が言った。
 「あなたはその話を…つまりこれから話そうとしていることを、その…、もう伝えてあるんですか。」
 「え?…ああ、はい。」
 そう言って手塚さんは私を見た。
 「彼女にですね。伝えてあります。」
 「そうですか…。」
 「それを聞いた上で、彼女はここに座っています。」
 私は小さく頷いた。そんな私をしばらく見つめていた元婚約者は、目を伏せ、言った。
 「…分かりました。…どうぞ、続けてください。」
 はい、でももう、すぐに終わります、と手塚さんは静かに言った。
 「僕が何を言いたいのか、はもう、お分かりになったということですよね。」
 「…そうですね。」
 「あなたはその生徒と出会い、婚約を破棄した。その生徒の就職先が決まったことで、あなたはイタリア行きを決意した。」
 私は膝の上に重ねた自分の手に視線を落とし、ただ静かにその結末を待っていた。 
 「就職先であるその会社の本社が、あなたの行こうとしているイタリアの街にあるんだそうです。ローマやミラノなどではなく、人口が三十万人ほどの都市だそうですね。その街と日本、両方に社屋を持っている企業はそう多くありませんでした。あなたの行き先を千堂先生に教えてもらってから、そのことを調べました。」
 「…なるほどね。」
 「その会社では、入社後に研修として最初の一年を、イタリアの本社で過ごす。」
 「…ええ。」
 「あなたは、その生徒を追って、その街へ行くんです。違いますか。」


 固く閉じた目を開き、ゆっくりと彼は話し始めた。
 「…向こうで会えたなら、きちんと話をしてみようと思った。」
 「ロマンチストなんですね。」
 「馬鹿げていると思うだろう?自分でもそう思う。」
 そう言って、私の婚約者だった人は力なく笑った。
 「なんと…言えばいいんだろうか。」

 …それをなんと呼べばいいのか、最初は分からなかった。今でもはっきりとは分からないのかも知れない。僕が知っている種類の感情ではなかった。愛している人がいて、生涯を共にしようと思っているのに、そんな感情が芽生えたことで、自分のことが分からなくなってしまった。そんな思いを抱えたまま、結婚を推し進めていくことが怖くなってしまった。君にも申し訳ないと思った。
 それで、あんな曖昧な言い方をしてしまった。どう言えばいいか、分からなかったんだ。君に、責めを負うべきところはなかったからね。嘘でも、それ以上のことは言えなかった。
 僕はひとりに戻ったものの、あの子に対して何が出来るわけでもなかった。ただ、苦しむだけの日々が続いた。そんな中、彼女の卒業が迫っていた。だから、なのだろうか。こんな、馬鹿げたことをしようとしていたのは…

 私は、映画のナレーションでも聞いているような気持ちで、頭の中を流れて行くかつての婚約者の声をいたずらに掬ってはこぼしていた。
 手塚さんが彼の部屋で、もしかしたらということだけど、と話してくれた私たちの婚約破棄の理由を聞いたとき私は、そうだったのか、とすっきりした気持ちと、少しチクッとした気持ちと、それからなぜかほっとしたような気持ちになったのだった。改めて元婚約者の口からこの話を聞いている今も、それに変わりはなかった。ああ、それなら分かる、それなら良かった、それなら、もういいんだ。

 遠くで、チャイムの音がした。
 ふと顔を上げて窓の外を見た。
 元婚約者が言った。
 「…申し訳ない、次の講義の準備をしなければならないんだ。」
 手塚さんは頷き、
 「そうですか。…では、僕たちは、これで。」
 と言った。
 「はい。…あ、最後に、ひとつだけ、いいだろうか。」
 そう言って元婚約者は、私に体を向け、まっすぐに私を見た。そして頭を下げ、言った。
 「本当に、申し訳なかった。…こんなこと聞きたくないだろうが、僕なりに、君を愛していた。それは、本当のことなんだ。信じてもらえるだろうか。…今日、久しぶりに君の姿を見て思った。多分、その気持ちは、」
 「駄目だ。」
 と手塚さんが元婚約者の言葉を阻んだ。
 「それ以上言うことは、俺が許さない。」
 ああ…と元婚約者は言葉を詰まらせ、手塚さんを見た。それからゆっくりと脱力して行った。
 「…ああ。そうなんだろうな。…済まなかった。…きちんと謝りたいと、思ったんだ。」
 「それと、彼女がここへ来た要件でもあるのですが。」
 それには答えず、手塚さんは続けた。
 「あなたのお母さんに頼まれた件で。」
 かちゃり、と音がした気がした。
 「その子に会うために、大学を辞めてまでイタリアに行く必要が…。」
 手塚さんがそう話したのと同時だった。
 「…え?…やだ。何の話ですか…?」
 肩より少し上で揃えた髪を左の耳にかけ、薄い水色のワンピースを着た綺麗な女の子が、開けられたドアの向こうにいた。
 「…イタリア…?え?何の話ですか…?…私のこと?」
 瞬間、元婚約者が、ガタっと椅子を押して立ち上がった。
 「…ああ。違うよ。…この人たちが冗談を言っていただけだ。」
 呼吸すら出来ず、私たちはただ停止していた。
 その子は大きな目を見開き、私たちの顔を交互に眺めて
 「…そうですよね、びっくりした!今、私、イタリアに研修に行くことになりましたって先生に知らせに来て。それでそんな話してたから。」
 と言った。
 「…そうか。うん、良かったな。」
 「先生も行くんですよね?…じゃあ、ほんとに会えるかもですね。」
 「私は、…うん、まだわからないんだ。」
 「え?そうなんですか?」
 「行き先は、変わるかも知れない。」
 「…そうだったんですか?」
 「ああ。まだ、何も決めたわけじゃないんだ。」
 「…ふうん。…そっか…。」
 首をかしげて口をとがらせ、黙り込んでいる大人たちを見回すと、そうなんですね、とその子は言った。…じゃあ、失礼します、そう言って、彼女は部屋を出て行った。
 かちゃん、とドアが閉まる音がした。
 誰も動かないままでいた。
 テーブルについた腕に体を預けたまま、元婚約者は、ふ、っと笑った。
 「…情けない。」
 その顔に、初めて見たそんな彼の顔に、私は、あの子と出会ってからの彼の二年間を見たような気がした。そこにもまた、彼なりの歴史があるのだろう。彼はのろのろと顔を上げ、私を見ると言った。
 「こんなところ…済まなかったね。…本当に、申し訳ないことをした。…本当に済まないことをしたね。…君には何の落ち度もなかったのに、」
 「ごめんね、そういうの、もういいから。」
 私は彼の言葉を遮った。
 「私じゃ、駄目だっただけだよ。」
 私の元婚約者は、開きかけた口を閉じた。
 「お母さんには、私が伝えておきます。あの子のことは…言いませんが、イタリア行きについては、もう一度考えてみるそうです、そう言ってもいいのかな。」
 「…ああ。」
 「うん。お母さんにつらい思いをさせてしまったこと、私は、私自身の気持ちで、改めてお詫びしようと思います。それで…。」
 「…。」
 「それで、それが、最後です。」


 研究棟を出ると、先ほどの学生が私たちを待っていた。そして私たちの姿を見ると、あ、どうも、と軽く頭を下げた。驚いて顔を見合わせた私と手塚さんだったが、そんな私たちの様子に構うことなく、小走りで近づいて来た彼女は言った。
 「さっきの話ですけど…。本当に冗談ですよね?」
 「え?あ…、ああ、どうして?」
 私は聞いた。
 「だって…。追って来られても困るし。」
 そう言って、彼女は困ったような表情を作って見せた。
 私は驚いて、次の瞬間、カッと体が熱くなった。う、と言葉にならない音が漏れた。そんな私を、後ろから伸びてきた手塚さんの手が引っ張り、自分の背後に隠した。
 「…君が、先生に気のある態度を取ったんだろ。」
 そう言った手塚さんの声が、遠くに聞こえた。目の前は、彼のコートのネイビーに塗り潰されていた。
 「え?…は?な、なんで?」
 「そう話している人が数人いた。」
 と手塚さんは嘘をついた。でもきっと、それは嘘ではないのだろう。えー?はは、と彼女は笑った。
 「…素敵な人だな、と思っていたくらいで。…そんなんじゃ。」
 「そんなんじゃないか。」
 「…だって。」
 「なんだ。」
 「だって…。」
 彼女は髪をかき上げ、言った。
 「せっかくイタリアまで行くんですよ?また、いい出会いがあるかも知れないし。」
 手塚さんが肩で息をつくのが分かった。そして彼は振り向き、行こう、と私に言った。歩き出した私たちに、彼女が叫んだ。
 「…だってほら!あなただってもう、新しい彼氏連れて来てるじゃない。そっちの方が信じられない。私、あなたのこと、知ってるんです!元フィアンセに、男連れで会いに来るなんて!」
 戻ろうとした手塚さんを、今度は私が押し留めた。
 深呼吸して、私は言った。
 「巻き込んで、ごめんね。…研修、頑張ってください。」
 私を睨みつけたまま、彼女は荒い呼吸を繰り返していた。
 「…もう、いいか?」
 と手塚さんが言った。
 「うん。行こう。」
 頷いて、私はそう返事をした。
 「…はあ?何ですか、それ。大人ぶらないでよ。」
 彼女は私たちの背中に、そんな言葉を投げつけた。
 構わずに私たちは歩いた。


 ふたり並んで、黙って駅までの道を歩いていた。
 大学の敷地を出て、壁伝いに進んだ。その壁も途切れ、最初の信号を渡り、それから左に曲がった。少し行くと、大きな通りがある。私は横断歩道の赤信号で足を止めた。すると、手塚さんが私の腕を引いて、すぐ横にある歩道橋を指差した。それで、ふたりしてその階段を登った。登り切ったとき、歩道橋を揺らすほどの強い風が吹き抜けた。私は空を仰いだ。通りを真下に見る場所まで歩くと、行き交う色とりどりの車がおもちゃのレースみたいに見えた。並木道の向こうの方に、大学の白い建物が見えていた。私たちは手すりにもたれて、そんな街を眺めた。
 「…くっ。」
 最初に我慢できなくなったのは手塚さんだった。
 「…え?」
 「…ははは!」
 こんなに笑う手塚さんを見たのは初めてだった。
 「…は?」
 「ははは!…いや、ごめ」
 「はあ!?なんで笑うの!!バカ!!手塚さんのバカ!!」
 「いや…っははは!」
 「ははは!手塚さんなんか最低!!」
 「ごめんごめん!沈黙に耐えられなかった。」
 「子どもか!」
 「いや、でも大家さんも笑ってるし。」
 「前から思ってたけどそんなに空気が読めなくて、良く今まで生きて来られたな!!」
 「ははは!それは俺も思う。あー、なんだろう、すげえ笑った。」
 「変態だからだよっ!手塚さんが変態だからだっ!」
 「もう笑わせないでくれ!はー、苦しい。」

 この道は何度も通ったことがあるけど、歩道橋を渡るのはおっくうでいつも信号待ちをしては横断歩道を渡っていた。この古ぼけた歩道橋の上からは、こんな景色が見えるって知らなかった。私は多分もう、二度とここへ来ることはないだろう。目に焼き付けておこう、なんて、そんなことも思わなかった。ただ強く吹く風が気持ち良かった。手塚さんとひとしきり笑って、私たちは歩道橋を降りた。

 「…手塚さん。」
 「ん?」
 「今日は、夕飯、作るよ。」
 「…おう。」

 手を繋がない私たちは、並んで歩いていた。
 私の視界の端っこで、手塚さんの肩が上下する。
 足元に視線を落とす。
 ふたりの慣れた速度で、彼のスニーカーが波のように繰り返しリズムを刻む。

 こんな日に、こんなことのあとなのに、彼が好きだ、と思う。

 元婚約者が去ってから、私の時間は止まった。
 仕事、結婚の準備、自分磨き、友人との付き合い、飲み会、やめられないものもたくさんあったのだけど。やめられないと思っていたものもたくさんあったのだけど。
 何の感情もなく、痛みもなく、食べ物の味も匂いもなく、鼓膜は震えても何も聞こえなかった。
 そんな時間がしばらく続いた後、今は全部休むべきだと思った。
 同じ生活を続けていることに、違和感があった。それに従った。
 それで、元婚約者と半同棲のような生活を送っていた部屋を引き払い、祖父母が他界し、私の家族もすでにそれぞれの場所に発ったあとしばらく空き家となっていたあのビルに、また住まわせてもらうことにした。
 決断には勇気が要ったけど、いざ決めてみたら、ああこういうことだったのか、と妙に納得した気持ちになり、想像していた不安など微塵もなかった。
 きっと、あの人に対しても同じだったと思う。
 不安を感じていたのは多分、私も同じだったのだ。
 違和感のあるまま、ただ話だけがどんどん進んでしまった。
 そんなことに気づいてもいけないような気がした。
 でも時間が過ぎれば過ぎるだけ、どんどん目の前から光が消えて行くような喪失感に蝕まれていった。
 そんな私の様子が、あの人を不安にさせていたのだろう。
 どちらが先かはわからない。
 どちらが先にそうなったのかは分からない。
 でもどの道、私たちに上手く行く未来はなかったのだ。
 ただ、認められなかっただけだ。
 あの人が先に終わりにすると決めてくれて、私はそんな苦しみから解放された。

 あれから時間が経った。久しぶりにこの道を歩いている私は、彼が、手塚さんが、黙ってそばに居てくれるのをいいことに、何も聞かずに私を隣においてくれるのをいいことに、いつまでも甘えて、何でもないフリをして、平気な顔して、彼の隣を歩いている。

 彼が好きだ、と思う。

 隠しても隠してもこぼれてくる。
 捨てても捨てても戻ってくる。
 光みたいにまっすぐ差している。
 それがたまらなく怖かった。
 私は、どこまでずるく、なんて勝手なのだろうか。

 右手に温度を感じて、私は顔を上げた。
 まっすぐ前を向いたままの手塚さんの左手が、私の右手と繋がれていた。
 「このまま歩いて帰ろうか。」
 と手塚さんが言った。
 「…遠過ぎるよ。」
 そうかすれた声で答えた私の言葉は、彼の耳に届いただろうか。
 強い風が、私たちの背中を押した。
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