初心な人質妻は愛に不器用なおっさん閣下に溺愛される、ときどき娘
 食べ終えた食器をワゴンへと戻す。呼び鈴を鳴らせば、この時間であってもパトリックが取りにくるだろう。だが、時間も時間なだけに気が引けた。
 部屋の外に置いておけば、気がついた誰かが片づけてくれる。
 そろりと立ち上がったイグナーツは、執務席に深く座る。急ぎの書類に目を通し、必要なものには押印する。
 いや、むしろ急ぎの案件などない。イグナーツが不在であってもパトリックをはじめとした使用人たちがなんとかしていたのだ。
 最後の一枚の押印を終え、背中を椅子に預けた。ギシリと音が響く。
 少し頭が痛いような気がした。手の甲を額に押し付け、目を閉じる。
 間違いなくイグナーツはオネルヴァを意識している。彼女がここに来ることでそうなることは最初からわかっていた。きっと、彼女に惹かれるだろうと。イグナーツの本能がそうさせるだろうと。
 だから最初にわざと牽制した。彼女に求めるのはエルシーとしての母親であって、イグナーツの妻ではないと。
 だが、オネルヴァはイグナーツを家族だといい、救ってくれた。突き放したつもりだったのに、いつの間にか彼女に引き寄せられていた。
 それが『無力』の力なのだ。イグナーツはいずれオネルヴァを求めるようになる。それがわかっていたからこそ、この結婚を引き受けたくなかった。
 それでもエルシーを盾にされてしまっては引き受けるしかなかった。
 そう思い返しながらも、本当にそうなのかと自問する。
 エルシーを言い訳にしているだけではないのだろうか。
 椅子を軋ませながら立ち上がり、部屋を出た。

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