恋はひと匙の魔法から

ずっとそばに

 彼の部屋に何が待ち受けているのかドキドキしながら着いていくと、部屋に入ってまず気がついたのは、空間にこれでもかと充満する特徴的なスパイスの香り。

「……カレー、ですか?」

 あらかじめ買ってきてくれていたのだろうか。だが、それにしては匂いが強い。まるでこの部屋で作ったかのような……。
 一つの可能性が確信となって胸に訪れ、西岡を見上げると、彼はグッと眉間に皺を寄せて顔をしかめた。

「あー……カレーは、カレーなんだけど……」

 返ってきた答えは、なんとも歯切れが悪い。足取りも重く、さして距離もない廊下がやけに長く感じる。彼の躊躇が如実に現れ出ていて、透子は眉を下げた。
 気にする必要なんてないのに――

 だが、リビングに足を踏み入れて最初に目に飛び込んできた、とんでもなく荒れ果てたキッチンを前にすると、流石の透子も絶句した。
 シンクの中に山積みになった大量の洗い物。汚れたザルやらまな板やらボウルやら小鍋やら、そしてはたまた蒸し器まで……何に使ったのだろうと思わず首を捻りたくなる。
 野菜の皮や切れ端がシンクだけでなく床にまで散らばっていて、作業台はふやけてボロボロになったカレールーの箱と、絶妙なバランスで積み重なった六枚の皿で占領されていた。
 透子は背後を振り返り、西岡の傷だらけの手を見つめた。彼の格闘具合を十二分に窺い知ることができ、透子の胸がふわっと温かいものに包まれる。

「西岡さん、あの、お料理したんですか?」

 そう尋ねた直後、腰に逞しい腕が回され、西岡がグリグリと頭を透子の肩に押しつけた。獣のような低い唸り声も聞こえてきて、彼が照れているのが分かる。透子はくすっと小さく笑った。

「もしかして、私のために作ってくれたんですか?」
「………………透子が料理を作れないなら、それなら別に俺が作ればいいと思ってさ。カレーくらいなら余裕だと思ったんだけど……」

 ハァ……とどんよりとしたため息が首筋にかかり、透子はくすぐったさから身をよじる。この重々しい間と彼の手の傷の具合から察するに、相当な苦労があったようだ。
 透子は労うように自分の腰に回った彼の腕を撫でる。

「西岡さん、私お腹空いちゃいました。カレーいただいてもいいですか?」

 肩に埋まる頭に向かって問いかけると、西岡は渋るような声を上げた。

「食べない方がいい気がしてきた」
「美味しいと思うから大丈夫です。私、よそいますね」
「…………俺がやるよ。透子は座ってて、疲れてるだろうし」

 抵抗を諦めたらしく、西岡はもう一度深くため息を吐くと、混沌の現場(キッチン)へと足を踏み入れていった。
 透子は西岡の言う通りダイニングテーブルにつき、彼の作ったカレーを待つことにした。
 その直後、「あーー」と絶望に満ちた嘆きが聞こえてきて、何事かと思ってキッチンを覗けば、炊飯器の前に立って額を押さえる西岡がいた。ご飯を炊き忘れていたらしい。
 ついに透子は声を上げて笑ってしまい、キッチンの後片付けをしながらご飯の炊き上がりを待つことにした。

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