悪戯な魔法使い


 食堂は学院内に数箇所あるが、エリーの訪れた食堂は軽食のメニューが豊富で、時間に余裕のない時でもサッと利用できるようになっている。人気メニューのサンドウィッチは分厚い卵焼きとハムとチーズが入っていて、味は絶品な上、安くてお腹がいっぱいになるのでエリーはとても気に入っていた。
 
 まだ人もまばらな時間帯、食堂内の入り口近くにあるレジカウンターで注文しようとした時である。カウンター奥にある、朝陽がくっきりと照らす白を基調としたテーブル席で、夜を思わせる漆黒の髪が揺れたのをエリーは見逃さなかった。

「わぁ、ナルムクツェ先生だ。朝から見れるなんてラッキー」

「相変わらずかっこいいな……。今日は早起きして良かったね。わたし、拝んでおこうかな」

「それはやめなさいよ」

 後ろを歩く女生徒達が、何やらきゃっきゃと騒いでいる。確かにナルムクツェの講義は午後から始まることが多く、この時間帯に彼を見かけるのはとても珍しい。だが今のエリーには、それよりも気になることがあった。
 テーブル席で、こちらに背を向けて座る魔術工学部の講師エト・アメルス。クリーム色の跳ねた髪とふわふわとした可愛い見た目が印象的な彼女は、数々の功績を挙げ続けている優れた才能の持ち主である。

 そのエト先生の真向かいの席に、ナルムクツェは腰を下ろしたようだった。一緒に朝食を取るのだろうか。何の接点もなさそうな二人だが、ナルムクツェはとてもリラックスしているのが遠目でも見て取れた。

「ナルムクツェ先生って、たまにエト先生と一緒に食堂にいるよね」

「え」

 女生徒の言葉に、エリーは思わず振り向いた。いきなり振り向かれた女生徒の二人は並んで目を丸くしている。恐らくエリーも今、彼女達とまったく同じ顔をしているのだろう。沈黙の中、しばらく鏡のように互いにじっと目を合わせていたが、途中で気まずくなったエリーは軽く会釈だけすると再び向き直った。

 幼い頃からナルムクツェは誰とも馴れ合おうとしなかった。そんな彼に対して、孤高の存在だという勝手なイメージを抱いていた。この学院で再会してからもそれはずっと変わらなかった。だがエリーの知らぬ間にナルムクツェは変わっていたのだ。

(誰かの前で、あんなに気を許す素振りを見せるなんて……わたしの前にいる時と全然違う……)
 
 もしかするとエト先生はナルムクツェにとって特別な存在なのかもしれない。あの夜に告げた言葉をナルムクツェは既に忘れているのかもしれない。
 ぐるぐると頭の中を駆け巡る負の感情に今にも攫われそうなエリーをよそに、くつろいだ様子のナルムクツェはテーブルの上のティーカップにゆっくりと手を伸ばした。
 そして口を付ける瞬間、エリーに視線を向けたのである。カップを置いたナルムクツェの口元は、引き結ばれたまま微かな笑みを湛えていた。

 チリ、と胸の奥が焼ける音が聞こえた。
 そんなエリーの昂ぶりをよそに、ナルムクツェはすぐさま窓の方へと視線を移し、学院の外に広がる緑の生い茂った中庭を眺めているようだった。

 こうして微笑みかけられたのは入学して以来初めてだ。ちょっとした感動さえ覚える。しかし余韻に浸る間もなく、後ろの女生徒達から黄色い悲鳴が上がり、エリーは肩を竦めた。

「ちょっと今の見た? ナルムクツェ先生がわたしに笑いかけてくれたんだけど! 会話が向こうの席まで聞こえてたのかな」

「何言ってんのよ、わたしに笑いかけてくれたの! あぁ、ナルムクツェ先生のあんな笑顔初めて見た。駄目だ、本気になっちゃいそう」

 どうやら、自分に微笑みかけてくれたと思ったのはエリーだけではなかったらしい。女生徒達の会話を聞いて、胸の奥の熱がサッと冷えていく。

(さっきはわたしを見てくれたと思っていたけど……気のせいか)

 湧き上がった幸福感を拭い去るようにして、エリーはそっと食堂を後にした。

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