悪戯な魔法使い
まじない、蠱う


 ナルムクツェが15歳まで住んでいた邸宅の敷地内には広大な森があった。森の奥には一族以外の者が立ち入らぬよう幾重にも結界が張られた場所があり、そこで幼い頃のナルムクツェは日々、魔術の鍛錬を積んでいた。

 エリーがナルムクツェに会う時は、ほぼ必ず結界のほど近くにある湖まで連れて行って貰っていた。その湖は年中湧き水のごとく魔力が生成され、近付く者の心身を癒す不思議な力を有していた。夕暮れ時の空を映したような透き通った青色は常に変わらず、湖面から漂う気高い輝きを目にする度に、ナルムクツェの深い青の瞳を重ね合わせずにはいられなかった。

『わぁ、きれい。今日も連れて来てくれてありがとう』

『うん』

 小さな湖の縁で、いつものように背の高いナルムクツェの隣に並ぶ。そこはエリーにとって特等席だった。

『今日もルーの目と同じ青色ね。晴れの日も雨の日もいつ見ても同じ色』

『俺の目と?』

『そう、ルーの目と同じ色だからここが大好きなの』

〈ルー〉とは幼い頃、エリーが呼んでいたナルムクツェの愛称だ。発音が難しい名前を呼ぶことに苦戦していたエリーに対し、彼が特別に許してくれた呼び方である。
 ナルムクツェは軽く首を傾げた。

『そう言うのはエリーだけだよ。家族以外は皆、俺の目は何を考えてるか分からないって言うから』

『そう? そんなことないよ、わたしは好きだもん。ルーの目は今日の空の青よりも、この前見た海の青よりも、お母さんが大切にしてる宝石の青よりもずっとずっと綺麗よ。わたしの心もルーの目みたいな青色になれば良いのに。そうしたら、世界中がもっと綺麗に見えるのに』

『大げさだな、エリーは』

『大げさじゃないよ。ほんとだよ、大好きだもん! 他に何もいらなくなるくらい好きなの』

 ナルムクツェが睫毛を伏せる。

『ふぅん。俺はエリーの弾くピアノの方が良いけどな。落ち着くから』

『ほんと? そうだったんだ、嬉しい! じゃあ、わたしピアノ頑張るよ。それで今よりもっとルーに落ち着いて貰うね!』

 ぷっとナルムクツェが吹き出し、肩を震わせてくすくす笑う。普段はほとんど表情を変えない彼が声を出して笑ったのに驚きつつ、エリーもつられて頬が緩んだ。

『どうして笑ってるの? わたし、何か変なこと言った?』

『ううん、言ってないよ。ピアノ楽しみにしてる』

 青い瞳が静かな湖を映す。ナルムクツェの横顔は温もりに溢れていて、エリーはとても幸せな気分になった。

 ところがみるみるうちに目の前のあどけない少年の顔が水滴で滲んだようにぼやけ始め、代わりに成長したナルムクツェの姿が重なるように浮かび上がる。すると幼い頃の穏やかな記憶が渦を巻いて闇に飲み込まれ、感情のない顔をした大人のナルムクツェだけが一人残った。

「先生」

 と、呼びかけると美しい口角が仄かな弧を描く。それは今朝見たばかりのナルムクツェの笑顔だった。

「何ですか、フォーサイス。わたくしの夢でも見ているのですか? それだけわたくしのことがお好きなら、目を瞑っていないで本物を見たらどうです」

 ぱちりと目を開けると、そこにはグランドピアノがあった。狭いレッスン室の壁際に座るワグナー先生が、眼鏡の真ん中を人差し指でくい、と持ち上げる。焦げ茶の髪を一つに結い上げ、むき出しになった彼女の額には今にもはち切れそうな青筋が浮き立っていた。

(やば……!)

 ピアノの鍵盤に乗せていた両手にパチンと痛みが走る。ワグナー先生は硬い指示棒でエリーの両手を叩いた後、譜面台に広げた楽譜を勢いよく指した。

「レッスン中に寝るとは何事ですか! こうして怒る暇も惜しいくらいなのですよ。さあ、もう一度ここから弾いて!」

「は、はい!」

 エリーはいつの間にかピアノに預けていた体を起こし、ピッと背筋を伸ばすと、たった今叩かれたばかりの両手で鍵盤を押さえた。





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