悪戯な魔法使い
 

 当時、幼かったエリーはナルムクツェの言葉を鵜呑みにし、寝る間も惜しんでピアノの練習に没頭する日々を送った。それまでに興味を示していた子どもらしい遊びには目もくれず、一心不乱にピアノに向き合う姿を周囲に心配されながらも、めきめきと腕を上げ、音楽大学への進学も視野に入るまでに上達した。世界中から優秀な生徒が集まるアラステア王立学術院に奇跡的に入学できたのも、その頃から地道に培ってきたピアノの技術があったからこそと言っても過言ではない。

 だがしかし、音に魔力を込めるとなればまた話は別である。 

「次のテヌートで魔力を込めて。そう、空気を含ませるようにすべての音を充分に響かせて……ああ、違いますよ。フォーサイス、手を止めて」

 隣に立つワグナー先生が、トットットッと小刻みに鍵盤を叩く。

「すみません」

「昨日よりも進歩していますよ。たった一日でこれだけの魔力を込められるようになるとは大したものです。ですが、魔力の流れが荒々しい。もう一度同じ所を弾いて、今度は今よりも丁寧に魔力を流すことを意識しましょう」

「分かりました」

 エリーは音楽療法学科に所属している。学んでいるのはただの音楽療法ではない。ピアノの音に魔力を込めて演奏し、より効果的に心身の回復を促すという特殊なものだ。
 一般的な演奏を専門とする音楽大学では取り扱えない分野であり、魔力を駆使しなければ演奏が成り立たないため、ピアノの技術を高めることのみに力を注いできたエリーが習得するのは至難の業である。ナルムクツェから個人的に指導を受けるようになってからは幾分、魔力量は安定してきたものの、それを自由に扱うにはまだまだ道のりは長い。

(きっと昨日より良くなったのはナルムクツェ先生のおかげだ。それなのにレッスン中に寝ちゃうなんて。わたしには余裕なんて一ミリもないんだから、もっと頑張らなくちゃ)

 エリーには、あの青い湖で聞いたナルムクツェの言葉に、どうしても答えたいという強い思いがあった。何もかも完璧なナルムクツェの婚約者として、少しでも自信が持てるようになりたいとも。そして、それらの思いと同じくらいにはピアノが好きだった。

 幼い日のナルムクツェの横顔を思い浮かべ、全神経を演奏に集中させる。
 が、その意気込みに呼応するように、粘つく怠さが視界を揺蕩い始め、急激に瞼に重みを加えた。

「フォーサイス……?」

 突然の睡魔に体の自由が奪われる。今にも倒れてしまいそうだ。何かがおかしい。指先の力が抜けそうになり、ぐっと力を入れるものの、抗おうとすればするほど更なる睡魔がエリーを襲う。それは感じたことがない強烈なものだった。

(何……これ……)

 とうとう目を開けているのが辛くなり、意識を朦朧とさせながら鍵盤の上に覆いかぶさる。乱暴に鳴ったピアノの不協和音に不快感を覚えるが、それは一瞬のことだった。

「エリー・フォーサイス、どうしましたか。返事を」
 
 ふっと意識が飛ぶ間際、ワグナー先生に体を揺さぶられる。すると、全身を支配していた睡魔があっという間に退き、エリーの体は一気に軽くなった。

「す……すみません、ワグナー先生……」

「慌てないで。大丈夫ですか」

 強い睡魔から開放され、他にも体に異常がないか確かめながら少しずつ顔を上げると、そこで初めてワグナー先生が心配そうな表情を浮かべていたことに気付いた。

「あの……」
 
「今日のところはこれぐらいにしておきましょう。フォーサイス、焦る気持ちは分かりますが、夜はしっかり眠りなさい。よく睡眠を取らなければ、まともな練習などできませんよ」

 これ以上、続けても意味がないと言われ、エリーは肩を落とした。当然である。レッスン中に二回も居眠りをしてしまったのだ。
 だが、ワグナー先生は口調は厳しくも、エリーの体を優しく気遣ってくれている。そこは理解しつつ、少しでも長くレッスンを受けたいエリーにとって、ワグナー先生の気遣いはとても複雑だった。

「分かりました……すみません、ワグナー先生。ありがとうございました」

「ご苦労さまでした」

「明日も宜しくお願いします……それでは」

「ええ、ごきげんよう」

 挨拶もそこそこにレッスン室を出て、そっとため息をつく。
 昨夜ナルムクツェの所から帰ったあとは、寮の自室でたっぷり睡眠を取った。朝もすっきり起きられた。昼食も普段通りに摂り、今の今まで体の不調など微塵も感じなかったはずである。にも関わらず、なぜレッスン中にこれだけ眠くなってしまったのだろうか。それも、起きているのが辛くなってしまうほどに。

(とりあえず、次はナルムクツェ先生の講義だ。行かなくちゃ)

 突如襲われた原因不明の異常な睡魔に、エリーは不安を覚えずにはいられなかった。








 

< 6 / 11 >

この作品をシェア

pagetop