月猫物語『遠いあの日の純恋歌」
 杉本鈴子は23歳。 姉の礼子とは違ってどこか天然なお嬢さんである。
大学を卒業した後、父の秘書として仕事の現場を見てきたのだ。 そして龍之介の考えも有って「今のうちに世帯を、、、。」ということになったらしい。
 姉の礼子は去年、料亭の長男坊と結婚して早々と長男を授かっている。 跡取だというのだから将来には何の不安も無い。
鈴子もまた杉本商事の今を身に沁みて知ってるのだから自分が死んだ後には社長として迎えられるはず。。 龍之介は何の不安も心配も無かった。
 見合いの席で取り敢えず「二人で考えて最良の方向へ、、、、。」という玉虫色の決断をしたまでは良かったが、健三にはどうも先へ進む勇気が無い。
部長の中村も「今は突かずにやつに任せよう。」と思っているから表立ってああだこうだと言うことも控えている。
 そんな中で健三は日々の仕事に追われている。 津村商事も何とか大きくなってきたようだ。
いつものように出勤しいつものように帰ってくる。 薄暗くなった道を歩いてきて静まり返っている我が家の前に立つ。
公園にもずっと前から子供たちの遊ぶ声は響かなくなっていた。 バス通りに在る花屋もいつの間にか店を閉めていた。
「この町もいよいよ寂しくなってきたな。」 引き戸を開けて中に入る。
 それから日課のように米を研ぎ、読み捨てた雑誌を拾い集め、七輪に火を入れる。
「中年の一人暮らしは寂しさが身に沁みるなあ。」 誰に言うとも無く呟いてみる。
そろそろ秋刀魚も終わる時期。 今年もよく食べたもんだ。
 飲みながら思い出すのはやはり松代のことばかり。 元気に走り回っていたあの頃の笑顔を思い出してはポロっと涙ぐんだりしている。
「馬鹿なやつだ。 自分から東京に行っておいて今更後悔してるなんて、、、。」 手紙を読み返してみる。
「あの時、俺に好きなやつは居るのかってうるさいくらいに聞いてたけどこういうことだったんだな。」 人の心の微妙さなど最近になってやっと分かってきたようなもの。
中学生ではさぞや分からなかっただろう。 「女って男より先に大人になるんだぜ。」って誰かが言っていた。
 「そうかもしれんな。 胸が膨らみ体が女らしくなってどことなくお姉さんっぽくなった時にはそうかもしれないな。」
秋刀魚を齧りながら今夜も一人で酒を飲む。 何事も無く静かで平和でそれでいてどこか寂しい夜である。

 13日の土曜日、この日もいつものように昼過ぎまで仕事に追われていた健三は3時過ぎになってやっと家に帰ってきた。 「おー、健三 やっと帰ってきたか。」
「何か有ったのか?」 家の前には玉蔵じいさんが立ち尽くして健三を待っていたのだ。
「お前を探してるって男が来たんだよ。」 「え? 俺を探す男?」
「そうだ。 神宮寺とかいう男でな、松代の旦那だそうだ。」
「松代の旦那がなぜ?」 「ああ、松代の実家に居るから言ってやれ。」
 玉蔵じいさんも珍しく真面目な顔をしている。 「あの手紙の主か。」
健三は家に入ることも無くそのまま松代の家に向かった。 これまで一度も入ったことの無い家にだ。
 家の引き戸はいつでも開けられるようになっている。 だから入ろうと思えばいつでも入れたんだ。
ただ松代のことを思い出したくない彼は無理して通り過ぎてきた。 表札もあの時のまま。
 引き戸を開けてみると靴が二つ土間に並んでいた。 「松代。」
その声に置くからスーツ姿の男が出てきた。 「あなたが吉田健三さんですか?」
「そうだけどあんたは?」 「私は神宮寺公彦と申します。 松代があなたに会いたいと言うので連れてきました。」
「しかし、松代はもう、、、。」 「分かっています。 医者にも動かすのは無理だと言われました。 ですが松代がどうしても行きたいと言うので無理を承知で連れてきたんです。」
「で、松代は今何処に?」 「奥の部屋に寝かせてあります。」
 健三は松代の勉強部屋だった奥の間の襖を開けてみた。
そこにすっかり痩せ細って力も無くなった松代が居た。 「神宮寺さんとか言ったね? しばらく二人だけにさせてくれないか?」
「構いません。 私は宿に居ますから何か有れば連絡をくだされば飛んできます。」 そう言って公彦は家を出ていった。
 「松代、俺だ。」 「健ちゃん、、、。」
「馬鹿だなあ。 こんなになっちまって、、、。」 「私は馬鹿だった。」
「いいんだ。 帰ってくれたんだから。」 「それでいいの?」
「お前が帰ってくれただけで俺は嬉しいよ。」 そう言いながら松代の細い腕を握る。
「痩せちまったな。」 「病気だから、、、。」
それだけ言うと松代は激しい咳を始めた。 相当に弱っている。
(もしかすると冬は越えられないかもしれないな。) 彼はそう思った。

 「松代が帰ってきたんだよ。」 「は? 帰ってくるのか? あいつは東京に行っちまったんだぞ。」
「旦那の話じゃ故郷で死なせてやりたいとのことだ。 だから医者の反対を押し切って連れてきたんだと、、、。」
 さっき玉蔵じいさんが言っていたことを思い出した。 (最後は故郷で、、、、、。)
咳が静まると松代はまた弱弱しい視線を健三に向けてきた。 「健ちゃん、我ままだった私を許して。)
「何言うんだよ。 戻ってきたんだ。 それだけでいい。」 「ほんとに?」
 長屋の前ではふくさんやうめさんたちまで集まってきて松代のことをあれやこれやと話していた。 「おいおい、ここで集まって話すのはいいが中に健三も居るんだぜ。 考えてやれよ。)
「それもそうだな。」 一団は取り敢えず玉蔵の豆腐屋に退いた。
 間も無く5時である。 みんなはそれぞれに夕食の準備を始めたらしい。
健三はというとさっきからずっと松代の枕元に居る。 すっかり変わってしまった松代を悲し気な目で見降ろしている。
 時々、その頬を撫でてみる。 そして頭をさすってみる。
松代は母に甘える子供みたいに見えてくる。 (変わっちまったな。 こんなに変われる物なのか?)
 その時、引き戸が開いてとめさんたちが入ってきた。 「健ちゃんもお腹が空いたろう? まっちゃんと一緒に食べや。」
そう言っておにぎりと沢庵を置いて行った。 「松代、おにぎり食べるか?」
「うん。」 健三がおにぎりを松代の口元へ運ぶ。
一口二口食べると顔を横に振った。 「食えないんだな。」
そのおにぎりをパクリと平らげる。 その姿を見て松代がクスッと笑った。
「変わってないんだね。」 「変わってたまるかってんだ。」
「健ちゃん 好きだった。」 「俺もだよ。」
そう言って健三が松代の手を握り締めた時、松代は静かに寝付いたようだった。
静かに静かに時間が流れていく。 松代の手が健三を探している。
 「松代、俺はここだぞ。 ここに居るぞ。」 その手をしっかり握りしめていると一度だけ松代が微笑んで何もかも静かになった。
健三は思いがけず松代を抱き締めていた。 「こんなになっちまって馬鹿野郎! 次に生まれてきたら間違いなく俺の隣に居るんだぞ! こんな姿になりやがって、、、。」
 そこへ誰から聞いたのか公彦が戻ってきた。 彼は居間で呆然としていた。
柱時計が10時を知らせた時、公彦も松代の枕元にやってきた。
 「神宮寺さん 松代は8時に死にました。 今までありがとうございました。」 「とんでもない。 私はあなたに会わせるために生きてきたようなものです。 この先はぜひあなたの傍に松代を置いてあげたいのですが、、、。」
「それはいかん。 あなたは仮にも松代の旦那じゃないか。 松代はあなたの傍に居るべきだ。」 「いえ、私も今まで考えに考えたんです。 結論としてあなたの傍に、、、。」
 夜の話し合いは平行線のままだった。 取り合えず葬式が先だ。





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