月猫物語『遠いあの日の純恋歌」
 「健ちゃん 好きだった。」 そう言った後、松代は深い眠りに落ちたらしい。
静かな時間だけが流れていく。 子供の頃にだってこんなに黙っている時間は無かった。
いつもいつも走り回り、いつもいつも何かを探して遊んでいた。 そんな二人だった。
いつも隣に居たからか、好きだとも嫌いだとも思わずに健三は過ごしてきたんだ。 それが今、松代は病身となって彼の前に帰ってきた。
 そんな松代を見ていた健三は初めて自分が松代を好きだったことに気付いたんだ。
「ねえ健ちゃん 好きな人は居るの?」 何度も松代は聞いてきた。
でも居るとも居ないとも答えられない健三は怒って家に帰ってしまった。 以来、松代もそう聞くのをやめてしまったんだ。
 (あの時、素直に言っていたらこんなことにはならなかったんだよな。 ごめんな 松代。) 眠っているように動かない松代の顔を見ながら彼は心で詫びた。
「子供の頃から好きだったあなたに妻の最期を看取ってもらいたいんです。』 神宮寺は健三にそう嘆願した。
「それはダメだよ。 あんたは旦那じゃないか。 最期は旦那であるあんたが看取るべきじゃないのか?」 「しかし、どうしてもあなたの傍で死にたいと松代が言うものですから、、、。』
神宮寺の目を見詰めていた健三は折れた。 そして松代と二人きりの時間を過ごしたのである。

 親父さんたちの位牌が祭ってある奥の部屋に松代を寝かせると玉蔵じいさんが棺桶を運んできた。 「松代ちゃんも死んじまったか。 みんな居なくなったんだな。』
うめさんたちも揃って葬式の準備をしてくれている。 健三は棺桶に入れられた松代の顔を見詰めた。
 「お前、死ぬ前に何か言ってたよな? 何て言ったんだ?」 松代は黙ったままである。
「健ちゃん 会えて嬉しかった。 幸せになってね。」 そんな声が何処からか聞こえたような気がした。
 「よしよし。 じゃあ葬式の準備だ。 これから忙しくなるぞ。」 玉蔵じいさんは自分を奮い立たせるように言った。
葬式は銭湯の二階である。 祭壇を拵えてみると丹後原のじいさんやばあさんがチラホラと集まってきた。
「健三、喪主はお前がやりなさい。」 「いやいや、何を言ってんだ? 喪主は俺じゃないよ。」
「いいんだ。 神宮寺さんからの頼みだよ。 引き受けてやってくれ。」 考え込んだ健三はやっぱり気が折れて受け入れたのである。
 「本日はお忙しいところ、神宮司松代さんの告別式にお出でいただきありがとうございます。 旧知の身としてここに立たせていただきました。」
思えば親父さんの時もお母さんの時も健三が喪主を務めたのである。 うめさんたちは遺影を眺めながら涙を拭いていた。
 「読経が終わりましたところで配偶者であられる神宮寺公彦様からご挨拶を戴きたいと存じます。」 健三に指名された公彦が立ち上がった。
「私は東京で清掃会社を営んでおる神宮寺公彦と申します。 本日は妻であった松代の告別式に大勢の皆様 お集まりいただきまして遺族として感謝を申し上げます。 私と松代が出合いましたのは、、、。」
 昼になり、一同は昼食のために一度解散した。 健三と玉蔵じいさんはこの場に残って公彦と談話を続けていた。
「葬式は終わった。 後は火葬だけだが遺骨はどうするね?」 「今後は全て健三さんにお願いしたいと思います。」
「おいおい、それは無いだろう。 少なくともあんたは、、、。」 「まあ、いいじゃないか。 親父さんもお袋さんもお前が面倒を見てるんだ。 傍に置いてやれよ。」
「とは言うけど、、、。」 「ぜひお願いします。 そのほうが松代も喜びます。」
「ほんとにいいのかい?」 「ぜひ、、、。」
「分かった。 あんたがそこまで言うのなら引き受けよう。」 公彦は棺桶の蓋を開けた。
「松代、お前のことは全て健三さんに任せたよ。 安心して眠ってくれ。」

 2時を過ぎて再び人たちが集まってきた。 これから出棺である。
健三は列の一番後ろに付こうとした。 「健三、お前が先に立って棺桶を持ちなさい。」
 お母さんの時のように玉蔵じいさんが健三を前に引き出してきた。 「じゃあ行きますか。」
火葬場までは40分ほど。 霊柩車に健三も乗り込んでいざ出発。 隣には神宮寺の姿も有った。
 全てが滞り無く終ったのは5時を過ぎた頃だった。 「これからどうするんです?」
「私は仕事が有るので明日にでも東京へ帰ります。 いろいろと御面倒をお掛けしました。」
「いいんだ。 俺のほうこそ今まで松代がお世話になりました。」 神宮寺の後姿を見送りながら(明日は我が身か。)と思った。

 一人になって酒を飲んでいる。 もうすぐ師走だ。 この辺りでもチラチラと小雪が舞うようになった。
松代の最期の顔を思い出しては悔しさだけが溢れてくる。 しかし負けてばかりは居られない。
会社に行くと部長の中村に鈴子との付き合いをやめることを告げた。 「そうか。 君がそこまで考えているのなら止むを得ない。 先方には私から伝えておくよ。」
 残念そうな中村に見送られて彼は会社を出た。 家路が殊の外寒く感じる夕方だった。
「あの長屋を何とかしたいな。」 この日から彼は長屋の改築を玉蔵じいさんと話し合うことにしたのだ。
 「そうか。 そこまでやってくれるか。 ならば俺も協力しよう。」 そう言って大工やら建具屋やら諸々の人たちを集めてくれた。
工事が始まったのは12月7日のことだ。 部屋を広くしてみんなで集まって食事が出来るようにする計画である。
 春には凡その工事が全て終わる。 そうすればこの長屋も生まれ変われる。
そしてもう一つ、彼は心に決めた。 康子を嫁に迎えることだった。
これには会社の誰もが驚いた。 「ほんとに康子さんでいいの? 見合いの話が有ったんじゃ?」
小百合たちも大きく目を見開いて驚いた様子である。 「幸せは近くに在るんだよ。」
健三は嬉しかった。 松代にも会えたのだから。







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