月猫物語『遠いあの日の純恋歌」
2.
ヒグラシか 泣いて寂しい 蝉の声。
季節は巡り空は清々しいくらいに秋色に染まっている。 夏の賑わいも静まって丹後原にも秋が来た。
健三はいつもと変わらぬ顔で会社の玄関を潜る。 そしていつものように事務室の前を通り過ぎる。
康子もまたいつものように彼を見付けていつものように「おはようございます。」と会釈をする。
その風景は津村商事の誰もが知っている。 「たまには挨拶くらいしてやればいいのになあ。」
「しょうがないよ。 健三さんは不器用な人だから。」 「それもそうだな。 康子さんも可哀そうに、、、。」
そんな話をみんなが陰でし合っていることを健三ももちろん知っている。 「暇なんだなあ。」
彼はいつものように机に向かうと鉛筆と印鑑を取り出した。 そして、、、。
「ねえねえ、今度さあ芋掘り大会やるんでしょう?」 「ああ、いつものやつね。」
「どれくらい集まるの?」 「あれ? 純子ちゃんは知らなかったっけ?」
「私さあ、今まではてんで興味が無かったから行く気もしなかったのよ。 でもさあ、30過ぎるとさあ、、、。」 「そうねえ。 彼氏が見付かるかどうかは知らないわよ。」
「いいの。 焼き芋が食べれたら。」 「何だ、男より芋か。」
「何ですって? 沼田さん 今 何て言った?」 「俺は何も言ってねえよ。」
「言ったでしょう? 男より芋かって。」 「それがどうした?」
事務所の中はいつものように喧嘩したり煽ったり。 「つまんねえやつらだなあ。」
「健三さん、あなたも芋掘り大会に来ませんか?」 「いいよいいよ。 俺は寝てるから。」
「ひどーーーーい。 女の子の誘いを断るなんて、、、。」 さっきからお喋りに熱中していた女子事務員たちは大声で笑い始めた。
健三は何を思ったのか部屋を出て玄関へ歩いてきた。 いつものようにドアは開けっ放しである。
目の前の通りを数台の車が通り過ぎていった。 健三は玄関脇の壁にもたれて空を見上げた。
白い雲は今日も気持ち良さそうに流れている。 「俺も雲になりてえなあ。」
奥の駐車場からトラックが出てきた。 これから荷物を運び出すらしい。
健三が背伸びをしていると部長の中島卓が歩いてきた。 「おー、健三君じゃないか。 何をしてるんだね?」
「疲れたんで日光浴をしてるんです。」 「そうかそうか。 でもあんまりお日様に当たり過ぎるのも良くないぞ。」
「そうですねえ。」 「ところでだ。 君に縁談が来てるんだが、、、。」
「縁談?」 「そうだ。 それも杉本商事の社長の娘さんだぞ。」
杉本商事と言えば津村商事と開業以来攻めり合っている商事会社じゃないか。 その社長が御令嬢を俺なんかに出すのか?
「まあ君のことだから考えてくれるとは思うが、、、。」 「まあ、じっくり考えます。」
「いい人だ。 いい返事を待ってるぞ。」 部長は言ってしまった。
部屋に帰ってきても健三の頭の中は疑問符がさっきからクルクルと回っている。 (杉本商事の御令嬢がねえ、、、。)
何となく昼が過ぎ、何となく3時を過ぎた頃、康子が部屋に入ってきた。 「ああ、健三さん。 部長がこれを、、、。」
「何だい?」 「分からないんですけど渡せば分かるからって。」
「あっそう。」 健三はいつものように無愛想に封筒を受け取った。
この間、「康子はどうだ?」と言われたばかり。 そこへ飛び込んできた縁談である。
彼にはどちらがどうとも言えなくて困惑するしかなかった。 康子のこともまだまだ何も知らなかったしね。
そこで仕事が終わった彼は家まで歩いて帰ることにした。 バスでも40分以上掛かる凸凹道だ。
歩けばどれくらい掛かるか分かったものではない。 それでも彼は歩き始めた。
会社の裏は俗に言う色街である。 着飾った女たちが妖艶な姿で男たちを手招きしている。
その街角には女たちを見張っているのか険しい顔の男が煙草を燻らせながら客引きをしている。 ずっと前からそうだったらしいね。
会社の玄関を出てバス通りを歩いて行く。 20分ほど歩くと雑木林が見えてくる。 数年前、ここで殺人事件が有ったんだ。
近くを通りかかったおっさんが何気に林を覗いたら若い女がぶら下がっているのが見えた。 調べてみたら身包み剥がされて木の枝にぶら下げられていたんだそうだ。
丹後原始まって以来の大騒ぎで最初は不倫だとか心中だとか様々に言われたもんだ。
だが調べてみたら隣町の農家の男と大喧嘩した末に殺されたことが明らかになった。 一件落着したのはいいがそれからが大変だった。
この辺りで「若い女の幽霊を見た。」っていう噂が広まってしまってなあ。 もちろん今でもその噂は有る。
健三は幽霊など見たことも無いのだが、、、。 「今でも居るんなら俺だって有ってるさ。 会わないってことはとっくに成仏しちまったってことじゃないのか?」
「そうは言うけどさあ、そう簡単に成仏できるのかね?」 「出来なかったらみーーーんなこの辺をウロウロしてるよ。 ハハハ。」
都合のいい解釈だと誰もが思っているが健三は何処吹く風である。 雑木林の周りを歩いて家にまで帰ってきた。
「今夜も飲むでな。 秋刀魚でも焼こうか。」 春の鰹、秋の秋刀魚とはよく言ったものだ。
焼酎を飲みながら台所を見渡してみる。 母ちゃんが動き回っていた狭い台所だ。
母ちゃんはいつもモンペを履いていた。 そんな母ちゃんが一度だけ正装をしたことが有る。
「今夜は一生に一度のお祝いだ。 何たって健三が津村商事に雇われたんだからね。」 そう言って初めてお猪口の日本酒を飲んだ。
思えば敗戦後の日本で俺たちは行き場を失っていた。 神風特攻隊が沖縄で散り果て、姫由利部隊も消え果た後、俺たちには希望なんてまるで無かった。
絶望の中で焼け野原に放り出されたんだ。 ある者は愚連隊になった。
ある者は神道に溺れていった。 ある者は平和主義者になった。
でもほとんどの青年が生きる希望を見失ってさ迷っていた。
その中で俺と数人の仲間は津村商事に拾われたんだ。 以来、脇目も降らずに働いてきた。
そして俺も50の声を聴くところにまでやってきた。 まだまだ嫁さんは居らん。
(なんとかしたい。)と思って焦ったことも有るが所詮焦ってもどうしようもないことだ。 寄ってこないやつには本当に寄ってこない。
そのうちに仕事が忙しくなって何もかも忘れちまった。 そこへ東京オリンピックの風が吹いたんだ。
都会暮らしに目が眩んだ連中は荷物をまとめてホイホイと飛んで行っちまった。 浅墓な連中だよ まったく。
松代だってあれ以来、手紙すら寄越さない。 まあ俺は田舎で死ぬつもりだから会うことすら無いだろうけど。
それにしちゃあ思い出すよな。 子供の頃は近所で噂になるくらいに仲良しだったんだから。
並んで歩いていればそれだけで近所のおばさんたちが噂した。 「いずれは結婚するんだろう。」ってな。
ところが松代が町を出ていってしまったもんだから皆様揃ってショックを受けたようだ。 玉蔵じいさんまでが俺に突っかかってきた。
「何でお前は松代を引き留めなかったんだ!」ってな。 「そんなことを言われても困るよ。 やつにはやつの人生が有るんだ。」
「何を分かったようなことを抜かしてやがる! 松代がどうなってもいいのか?」 それだけ言ってきたものだから今でも口うるさく松代のことを聞いてくるんだ。
「なあ、健三。 松代の居場所は分かったか?」 「手紙すら寄越さないんだから分かんねえよ。」
「あんだけ仲も良かったのに不思議だなあ。 こんなことって有るのか?」 「有るから人間なんだよ。」
玉蔵じいさんは土間に腰を下ろすと安い煙草を吹かした。 「分からんもんよなあ。」
「いいんだって。 もう終わったんだから。」 「ほんとにそれでいいのか?」
健三は玉蔵が吐き出す煙をじっと見詰めていた。
「健三、松代のことが分かったら教えろよ。」 「そんなんはどうでもいいだろう。 たまには自分の余生でも心配したらどうだ?」
「余生とは言ってくれるなあ。 俺はまだまだ現役だ。」 そう言って今日も彼は三輪車を漕いでいる。
あの悲しそうなラッパを吹きながら、、、。
季節は巡り空は清々しいくらいに秋色に染まっている。 夏の賑わいも静まって丹後原にも秋が来た。
健三はいつもと変わらぬ顔で会社の玄関を潜る。 そしていつものように事務室の前を通り過ぎる。
康子もまたいつものように彼を見付けていつものように「おはようございます。」と会釈をする。
その風景は津村商事の誰もが知っている。 「たまには挨拶くらいしてやればいいのになあ。」
「しょうがないよ。 健三さんは不器用な人だから。」 「それもそうだな。 康子さんも可哀そうに、、、。」
そんな話をみんなが陰でし合っていることを健三ももちろん知っている。 「暇なんだなあ。」
彼はいつものように机に向かうと鉛筆と印鑑を取り出した。 そして、、、。
「ねえねえ、今度さあ芋掘り大会やるんでしょう?」 「ああ、いつものやつね。」
「どれくらい集まるの?」 「あれ? 純子ちゃんは知らなかったっけ?」
「私さあ、今まではてんで興味が無かったから行く気もしなかったのよ。 でもさあ、30過ぎるとさあ、、、。」 「そうねえ。 彼氏が見付かるかどうかは知らないわよ。」
「いいの。 焼き芋が食べれたら。」 「何だ、男より芋か。」
「何ですって? 沼田さん 今 何て言った?」 「俺は何も言ってねえよ。」
「言ったでしょう? 男より芋かって。」 「それがどうした?」
事務所の中はいつものように喧嘩したり煽ったり。 「つまんねえやつらだなあ。」
「健三さん、あなたも芋掘り大会に来ませんか?」 「いいよいいよ。 俺は寝てるから。」
「ひどーーーーい。 女の子の誘いを断るなんて、、、。」 さっきからお喋りに熱中していた女子事務員たちは大声で笑い始めた。
健三は何を思ったのか部屋を出て玄関へ歩いてきた。 いつものようにドアは開けっ放しである。
目の前の通りを数台の車が通り過ぎていった。 健三は玄関脇の壁にもたれて空を見上げた。
白い雲は今日も気持ち良さそうに流れている。 「俺も雲になりてえなあ。」
奥の駐車場からトラックが出てきた。 これから荷物を運び出すらしい。
健三が背伸びをしていると部長の中島卓が歩いてきた。 「おー、健三君じゃないか。 何をしてるんだね?」
「疲れたんで日光浴をしてるんです。」 「そうかそうか。 でもあんまりお日様に当たり過ぎるのも良くないぞ。」
「そうですねえ。」 「ところでだ。 君に縁談が来てるんだが、、、。」
「縁談?」 「そうだ。 それも杉本商事の社長の娘さんだぞ。」
杉本商事と言えば津村商事と開業以来攻めり合っている商事会社じゃないか。 その社長が御令嬢を俺なんかに出すのか?
「まあ君のことだから考えてくれるとは思うが、、、。」 「まあ、じっくり考えます。」
「いい人だ。 いい返事を待ってるぞ。」 部長は言ってしまった。
部屋に帰ってきても健三の頭の中は疑問符がさっきからクルクルと回っている。 (杉本商事の御令嬢がねえ、、、。)
何となく昼が過ぎ、何となく3時を過ぎた頃、康子が部屋に入ってきた。 「ああ、健三さん。 部長がこれを、、、。」
「何だい?」 「分からないんですけど渡せば分かるからって。」
「あっそう。」 健三はいつものように無愛想に封筒を受け取った。
この間、「康子はどうだ?」と言われたばかり。 そこへ飛び込んできた縁談である。
彼にはどちらがどうとも言えなくて困惑するしかなかった。 康子のこともまだまだ何も知らなかったしね。
そこで仕事が終わった彼は家まで歩いて帰ることにした。 バスでも40分以上掛かる凸凹道だ。
歩けばどれくらい掛かるか分かったものではない。 それでも彼は歩き始めた。
会社の裏は俗に言う色街である。 着飾った女たちが妖艶な姿で男たちを手招きしている。
その街角には女たちを見張っているのか険しい顔の男が煙草を燻らせながら客引きをしている。 ずっと前からそうだったらしいね。
会社の玄関を出てバス通りを歩いて行く。 20分ほど歩くと雑木林が見えてくる。 数年前、ここで殺人事件が有ったんだ。
近くを通りかかったおっさんが何気に林を覗いたら若い女がぶら下がっているのが見えた。 調べてみたら身包み剥がされて木の枝にぶら下げられていたんだそうだ。
丹後原始まって以来の大騒ぎで最初は不倫だとか心中だとか様々に言われたもんだ。
だが調べてみたら隣町の農家の男と大喧嘩した末に殺されたことが明らかになった。 一件落着したのはいいがそれからが大変だった。
この辺りで「若い女の幽霊を見た。」っていう噂が広まってしまってなあ。 もちろん今でもその噂は有る。
健三は幽霊など見たことも無いのだが、、、。 「今でも居るんなら俺だって有ってるさ。 会わないってことはとっくに成仏しちまったってことじゃないのか?」
「そうは言うけどさあ、そう簡単に成仏できるのかね?」 「出来なかったらみーーーんなこの辺をウロウロしてるよ。 ハハハ。」
都合のいい解釈だと誰もが思っているが健三は何処吹く風である。 雑木林の周りを歩いて家にまで帰ってきた。
「今夜も飲むでな。 秋刀魚でも焼こうか。」 春の鰹、秋の秋刀魚とはよく言ったものだ。
焼酎を飲みながら台所を見渡してみる。 母ちゃんが動き回っていた狭い台所だ。
母ちゃんはいつもモンペを履いていた。 そんな母ちゃんが一度だけ正装をしたことが有る。
「今夜は一生に一度のお祝いだ。 何たって健三が津村商事に雇われたんだからね。」 そう言って初めてお猪口の日本酒を飲んだ。
思えば敗戦後の日本で俺たちは行き場を失っていた。 神風特攻隊が沖縄で散り果て、姫由利部隊も消え果た後、俺たちには希望なんてまるで無かった。
絶望の中で焼け野原に放り出されたんだ。 ある者は愚連隊になった。
ある者は神道に溺れていった。 ある者は平和主義者になった。
でもほとんどの青年が生きる希望を見失ってさ迷っていた。
その中で俺と数人の仲間は津村商事に拾われたんだ。 以来、脇目も降らずに働いてきた。
そして俺も50の声を聴くところにまでやってきた。 まだまだ嫁さんは居らん。
(なんとかしたい。)と思って焦ったことも有るが所詮焦ってもどうしようもないことだ。 寄ってこないやつには本当に寄ってこない。
そのうちに仕事が忙しくなって何もかも忘れちまった。 そこへ東京オリンピックの風が吹いたんだ。
都会暮らしに目が眩んだ連中は荷物をまとめてホイホイと飛んで行っちまった。 浅墓な連中だよ まったく。
松代だってあれ以来、手紙すら寄越さない。 まあ俺は田舎で死ぬつもりだから会うことすら無いだろうけど。
それにしちゃあ思い出すよな。 子供の頃は近所で噂になるくらいに仲良しだったんだから。
並んで歩いていればそれだけで近所のおばさんたちが噂した。 「いずれは結婚するんだろう。」ってな。
ところが松代が町を出ていってしまったもんだから皆様揃ってショックを受けたようだ。 玉蔵じいさんまでが俺に突っかかってきた。
「何でお前は松代を引き留めなかったんだ!」ってな。 「そんなことを言われても困るよ。 やつにはやつの人生が有るんだ。」
「何を分かったようなことを抜かしてやがる! 松代がどうなってもいいのか?」 それだけ言ってきたものだから今でも口うるさく松代のことを聞いてくるんだ。
「なあ、健三。 松代の居場所は分かったか?」 「手紙すら寄越さないんだから分かんねえよ。」
「あんだけ仲も良かったのに不思議だなあ。 こんなことって有るのか?」 「有るから人間なんだよ。」
玉蔵じいさんは土間に腰を下ろすと安い煙草を吹かした。 「分からんもんよなあ。」
「いいんだって。 もう終わったんだから。」 「ほんとにそれでいいのか?」
健三は玉蔵が吐き出す煙をじっと見詰めていた。
「健三、松代のことが分かったら教えろよ。」 「そんなんはどうでもいいだろう。 たまには自分の余生でも心配したらどうだ?」
「余生とは言ってくれるなあ。 俺はまだまだ現役だ。」 そう言って今日も彼は三輪車を漕いでいる。
あの悲しそうなラッパを吹きながら、、、。