月猫物語『遠いあの日の純恋歌」
松代はというと37年の秋に東京に飛び出して以来、あちらこちらで仕事を転々としていた。 最初はテレビ局の事務員だった。
ところがドロドロした裏側を見てしまって半年で辞めてしまった。
その後、銀座をブラブラしていた松代をバーのマネージャーが気に入ってママに会わせたことからホステスになった。 【ジュエルクイーン】という大流行りのバーだった。
景気も良かったし田舎育ちの松代は受けに受けて毎晩面白いように稼いでいた松代はいつかホステス仲間から疎ましがられるようになってしまった。
その店を半年で飛び出した後はどの店も長続きしなかったという。
それから半年が過ぎ、渋谷公園でぼんやりしていたところを自称 社長という男に見染められて住み込みで家事をするようになった。
それだけかと思ったら1年後にはその男の子供を産んでしまって逃げられなくなってしまったらしい。 実はこの男、やくざの親分だったのだ。
いつか松代も薬に溺れるようになってしまった。 そして体には痣と刺青が増えていった。
健三が縁談の話に迷っていた頃、松代は起きていられないほどに病んでしまって幻想と妄想に苦しめられるようになっていた。
そうとは知らぬ健三は今日もいつものように机に向かってコツコツと仕事をしている。 空は晩秋の装いを携えていつか訪れる冬を待っていた。
「おいおい、健三。 見合いの話はどうするんだ? 先方も返事を待ってるんだぞ。」 廊下を歩いていた健三に中島が苛立った顔で近寄ってきた。
「どうするって言われても、、、。」 「じゃあ誰かいい女でも見付けたのか? それだったら断るぞ。」
「いやいや、それもそれで困るんだ。 居ないんだから。」 「じゃあどっちかにはっきりしろよ。 煮え切らない男だなあ。」
そう言われて健三はハタと困った。 「まあいい。 最初の見合いは俺も付き合うからなんとかなるだろう。 心配するな。」
「は、はあ、、、。」 そこまで言われた健三は仁部もない返事をした。
「まあ、そう固くなるな。 俺も一緒だ。 安心しろ。」 ポンポンと肩を叩いた中島はニヤッと笑って行ってしまった。
おかげで48歳になる無愛想な事務員は生涯初めての見合いに付き合わされることになってしまった。
芋掘り大会も終わってしまって丹後原も冬を迎えるだけである。 あっちでこっちで冬支度の話が漏れ伝わってくる。
「今年も薪をたくさん用意しなきゃねえ。」 「ふくさんは今年も餅つきをやるんだろう?」
「とみさんはどうするんだろうねえ? 玉さんは元気だからいいけど、、、。」 うめさんもふくさんも何やかやと気忙しいようである。
健三はふと思った。 (親父の顔を拝みに行こうか。)と。
会社から帰る途中、芋掘りをやった畑が見える。 あちらこちら掘り返された跡が見える。
「今年もばあさんたちはあそこで張り合ってたんだなあ。」 隅のほうに焼き芋をしたらしい跡が残っていた。
ふくさんが袋いっぱいに詰め込んだサツマイモをドカンと玄関に置いて行ったのはその後だ。
「また置いて行きおったな。」 毎年のように彼は寝床からチョコッと顔を上げると苦笑いをして引き戸を開ける。
足元には取れたばかりのサツマイモがドンと置いてある。 「飽きないばあさんたちだ。」
その芋を倉庫に押し込んで溜息を吐いたのももう一か月近く前になる。
居間で着替えていた健三は擦り切れたズボンが溜まっていることに気が付いた。 「こいつらも新しくしてやらんといかんなあ。」
ブツブツ言いながら財布を持ち、玄関を出ようとしたところに玉蔵じいさんがやってきた。 「おー、健三。 何処に行くんだね?」
「たまには親父の顔を拝んでやろうと思ってな。」 「そうか。 親父さんは元気か?」
「死んだって言ってこないからまだまだ元気なんだろうよ。」 「そうかそうか。 俺も元気だって伝えてくれ。」
「分かった分かった。 玉蔵が死に損なって苦しんでるって言っといてやるよ。」 「死に損ないだ? こら健三!」
玉蔵じいさんが追い掛けてくるのも無視して彼はバス停に急いだ。 ここから30分、幸町まで行けばいい。
毎度毎度の凸凹道をバスは喘ぎながら走って行く。 松代と一緒に登った丘が見えてきた。
あの上からは線路もよく見えるんだ。 だからか松代が東京に行っちまった後は登ったことが無い。
あの日、聞いた汽笛が耳に残ってて嫌なんだよ。 思い出すから。
甘い香水を漂わせ、髪を長く伸ばしておしゃれなバッグを持った松代の顔、、、。 今はどうしているんだろう?
「もう終わったんだ。」 そう強がってはみたものの、心のどこかにまだまだ引っかかっている松代の顔。
「何であの時に好きだって言えなかったんだろうなあ。」 今更振り返っても松代は帰ってこないだろう。
複雑な思いを抱えている健三を乗せてバスは幸町に着いた。 「降りられる方は居ませんか?」
運転手の問い掛けに我に返った健三は慌てて降りていった。
幸町 烏坂、この通りから奥へ入ると小さな養老院が在る。 5年前に親父が入った養老院だ。
玄関を入ると掃除婦らしい女が箒を持って歩いてきた。 「あらあら健三さんかい。 お父さんの面会だね?」
「そう。 たまには来てやろうと思って。」 「家族は健三さんしか居ないんだからもうちっと来てあげてよ。」
「そうしたいんだがね、忙しくて。」 「待ってて。 見てくるから。」
女が部屋に行ってしまったのを確認してからロビーの隅っこに置いてある椅子に腰を下ろした健三は壁に貼られた紙に目をやった。
『時移り 人は代われど古の 深き恋路に たれか佇む。』
「粋な歌を作る人が居るんだねえ。」 「ああ、それかい。 それはケーさんだよ。」
「ケーさん?」 「そうだ。 何でも若い頃から短歌の勉強をしてたんだそうだよ。」
「そうかい。 熱心な人も居るんだねえ。」 健三はチラッと庭を見た。
落ち葉焚きをやるのだろうか。 真ん中に落ち葉が掃き集められている。 少しずつこれから風が冷たくなっていくんだ。
そこへさっきの女が戻ってきた。 「ごめんなさいねえ。 息子が来てるよって言ったんだけど寝込んじゃってて起きないのよ。」
「じゃあまた来るよ。」 「そう? 悪いわねえ。 お昼だったら起きてるんだけど、、、。」
健三は腰を上げた。 「さて帰るか。」
一通りの礼を言ってから外へ出る。 帰りのバスを待っていると何処かで聞いた声が健三を追い掛けてきた。
「あらあら、健三さんじゃない。 どうしたんですか?」 「いやいや、親父がここの養老院に入ってるから見舞いに来たんだ。」
「へえ、健三さんのお父さんってここに居たんだ。」 「んで、明美ちゃんたちは何処へ?」
「これから3人で住吉町の食堂まで夜ご飯を食べに行こうと思って、、、。」 「健三さんもいかがですか?」
「俺か、、、?」 健三は戸惑いながら財布の中身を確認した。
そこには出番を待っている千円札が何枚も埋もれていた。 「分かった。 行こうか。」
「そう来なくちゃ、、、。」 小百合は頓狂な声を挙げた。
ところがドロドロした裏側を見てしまって半年で辞めてしまった。
その後、銀座をブラブラしていた松代をバーのマネージャーが気に入ってママに会わせたことからホステスになった。 【ジュエルクイーン】という大流行りのバーだった。
景気も良かったし田舎育ちの松代は受けに受けて毎晩面白いように稼いでいた松代はいつかホステス仲間から疎ましがられるようになってしまった。
その店を半年で飛び出した後はどの店も長続きしなかったという。
それから半年が過ぎ、渋谷公園でぼんやりしていたところを自称 社長という男に見染められて住み込みで家事をするようになった。
それだけかと思ったら1年後にはその男の子供を産んでしまって逃げられなくなってしまったらしい。 実はこの男、やくざの親分だったのだ。
いつか松代も薬に溺れるようになってしまった。 そして体には痣と刺青が増えていった。
健三が縁談の話に迷っていた頃、松代は起きていられないほどに病んでしまって幻想と妄想に苦しめられるようになっていた。
そうとは知らぬ健三は今日もいつものように机に向かってコツコツと仕事をしている。 空は晩秋の装いを携えていつか訪れる冬を待っていた。
「おいおい、健三。 見合いの話はどうするんだ? 先方も返事を待ってるんだぞ。」 廊下を歩いていた健三に中島が苛立った顔で近寄ってきた。
「どうするって言われても、、、。」 「じゃあ誰かいい女でも見付けたのか? それだったら断るぞ。」
「いやいや、それもそれで困るんだ。 居ないんだから。」 「じゃあどっちかにはっきりしろよ。 煮え切らない男だなあ。」
そう言われて健三はハタと困った。 「まあいい。 最初の見合いは俺も付き合うからなんとかなるだろう。 心配するな。」
「は、はあ、、、。」 そこまで言われた健三は仁部もない返事をした。
「まあ、そう固くなるな。 俺も一緒だ。 安心しろ。」 ポンポンと肩を叩いた中島はニヤッと笑って行ってしまった。
おかげで48歳になる無愛想な事務員は生涯初めての見合いに付き合わされることになってしまった。
芋掘り大会も終わってしまって丹後原も冬を迎えるだけである。 あっちでこっちで冬支度の話が漏れ伝わってくる。
「今年も薪をたくさん用意しなきゃねえ。」 「ふくさんは今年も餅つきをやるんだろう?」
「とみさんはどうするんだろうねえ? 玉さんは元気だからいいけど、、、。」 うめさんもふくさんも何やかやと気忙しいようである。
健三はふと思った。 (親父の顔を拝みに行こうか。)と。
会社から帰る途中、芋掘りをやった畑が見える。 あちらこちら掘り返された跡が見える。
「今年もばあさんたちはあそこで張り合ってたんだなあ。」 隅のほうに焼き芋をしたらしい跡が残っていた。
ふくさんが袋いっぱいに詰め込んだサツマイモをドカンと玄関に置いて行ったのはその後だ。
「また置いて行きおったな。」 毎年のように彼は寝床からチョコッと顔を上げると苦笑いをして引き戸を開ける。
足元には取れたばかりのサツマイモがドンと置いてある。 「飽きないばあさんたちだ。」
その芋を倉庫に押し込んで溜息を吐いたのももう一か月近く前になる。
居間で着替えていた健三は擦り切れたズボンが溜まっていることに気が付いた。 「こいつらも新しくしてやらんといかんなあ。」
ブツブツ言いながら財布を持ち、玄関を出ようとしたところに玉蔵じいさんがやってきた。 「おー、健三。 何処に行くんだね?」
「たまには親父の顔を拝んでやろうと思ってな。」 「そうか。 親父さんは元気か?」
「死んだって言ってこないからまだまだ元気なんだろうよ。」 「そうかそうか。 俺も元気だって伝えてくれ。」
「分かった分かった。 玉蔵が死に損なって苦しんでるって言っといてやるよ。」 「死に損ないだ? こら健三!」
玉蔵じいさんが追い掛けてくるのも無視して彼はバス停に急いだ。 ここから30分、幸町まで行けばいい。
毎度毎度の凸凹道をバスは喘ぎながら走って行く。 松代と一緒に登った丘が見えてきた。
あの上からは線路もよく見えるんだ。 だからか松代が東京に行っちまった後は登ったことが無い。
あの日、聞いた汽笛が耳に残ってて嫌なんだよ。 思い出すから。
甘い香水を漂わせ、髪を長く伸ばしておしゃれなバッグを持った松代の顔、、、。 今はどうしているんだろう?
「もう終わったんだ。」 そう強がってはみたものの、心のどこかにまだまだ引っかかっている松代の顔。
「何であの時に好きだって言えなかったんだろうなあ。」 今更振り返っても松代は帰ってこないだろう。
複雑な思いを抱えている健三を乗せてバスは幸町に着いた。 「降りられる方は居ませんか?」
運転手の問い掛けに我に返った健三は慌てて降りていった。
幸町 烏坂、この通りから奥へ入ると小さな養老院が在る。 5年前に親父が入った養老院だ。
玄関を入ると掃除婦らしい女が箒を持って歩いてきた。 「あらあら健三さんかい。 お父さんの面会だね?」
「そう。 たまには来てやろうと思って。」 「家族は健三さんしか居ないんだからもうちっと来てあげてよ。」
「そうしたいんだがね、忙しくて。」 「待ってて。 見てくるから。」
女が部屋に行ってしまったのを確認してからロビーの隅っこに置いてある椅子に腰を下ろした健三は壁に貼られた紙に目をやった。
『時移り 人は代われど古の 深き恋路に たれか佇む。』
「粋な歌を作る人が居るんだねえ。」 「ああ、それかい。 それはケーさんだよ。」
「ケーさん?」 「そうだ。 何でも若い頃から短歌の勉強をしてたんだそうだよ。」
「そうかい。 熱心な人も居るんだねえ。」 健三はチラッと庭を見た。
落ち葉焚きをやるのだろうか。 真ん中に落ち葉が掃き集められている。 少しずつこれから風が冷たくなっていくんだ。
そこへさっきの女が戻ってきた。 「ごめんなさいねえ。 息子が来てるよって言ったんだけど寝込んじゃってて起きないのよ。」
「じゃあまた来るよ。」 「そう? 悪いわねえ。 お昼だったら起きてるんだけど、、、。」
健三は腰を上げた。 「さて帰るか。」
一通りの礼を言ってから外へ出る。 帰りのバスを待っていると何処かで聞いた声が健三を追い掛けてきた。
「あらあら、健三さんじゃない。 どうしたんですか?」 「いやいや、親父がここの養老院に入ってるから見舞いに来たんだ。」
「へえ、健三さんのお父さんってここに居たんだ。」 「んで、明美ちゃんたちは何処へ?」
「これから3人で住吉町の食堂まで夜ご飯を食べに行こうと思って、、、。」 「健三さんもいかがですか?」
「俺か、、、?」 健三は戸惑いながら財布の中身を確認した。
そこには出番を待っている千円札が何枚も埋もれていた。 「分かった。 行こうか。」
「そう来なくちゃ、、、。」 小百合は頓狂な声を挙げた。