月猫物語『遠いあの日の純恋歌」
幸町からバスに乗る。 住吉町なんて健三は来たことが無い。
ぼんやりしていると「降ります!」って声が聞こえた。
バスを降りて4人は通り沿いを歩いて行く。 もう7時くらいで辺りは薄暗くなっている。
二つ目の角を左に曲がり、三つ目の角を右に曲がって少し行くと[飯屋]と書かれた暖簾が下がった店が見えてきた。
「こんな所に店が在ったんだねえ。」 「私たちも今夜初めて来たんですよ。」
暖簾を潜って中に入る。 テーブルが奥まで並んでいる。
4人は入り口近くのテーブルに落ち着いてメニュー表を開いた。
奥のほうではテレビが点いていて何かの番組をやっている。 健三は一番奥のテーブルに目を止めた。
そこにはスーツ姿の男が3人座っていて酒を飲みながら楽しそうに話しているのが見えた。 「そうなんですよ。 あいつも緊張してはいますが見合いを楽しみにしてるようで、、、。」
「ねえねえ、健三さんは何を食べる?」 小百合が頓狂に聞いてきた。
「シーーーーーー。」 健三は慌てて口に指を当てた。 「何か有ったの?」
不思議そうに聞く晴美に奥のテーブルを指差してみる。 「何だ、部長か。」
以来、健三は何を聞いても頷くだけである。 奥の3人はますます盛り上がってきたようだ。
いい加減、腹がいっぱいになった健三は明美に金を渡してササっと店を出ていってしまった。
まいったなあ。 あの店に部長と杉本の社長が飲みに来てたなんて、、、。 ばれてないだろうなあ?」 そう思うと気が気ではないのだが、店を出てから安心したのかあんまり食べてなかったことに気が付いた。
それで幸町にまで戻ってきた彼は養老院の奥の酒場通りへ歩いて行った。 ここには行き付けだった居酒屋が在る。
(今もやっていればいいが、、、。) そう思いながら[ひろし]という提灯を探した。
「在った在った。」 引き戸を開けると親父さんが秋刀魚を焼いているのが見えた。
「いらっしゃい。 おー、健ちゃんじゃないか。 久しぶりだなあ。」 「親父さんも元気そうで。」
「俺は不死身だから死なんよ。 アハハ。」 「あらあら健三さんじゃない。 久しぶりねえ。 どうしたの?」
「親父を見に来たんで帰りに寄ったんですよ。」 「お父さんはどうだった?」
「俺のことなんかそっちのけで寝てました。」 「あらあら、お父さんらしいわねえ。」
「今夜も飲むだろう?」 「ええ。 何か美味いのは有りますか?」
「全部美味いぞ。」 「お父さん、いくら何でも全部は食べれませんよ。」
「いやいや健三なら食べるよ。 なあ、健三。」 「まあ、、、。」
「よしよし。 じゃあこいつから食え。 焼いたばかりの秋刀魚だ。 良かったら母ちゃんも食べていいぞ。」 「あなた、、、。」
「冗談だよ 冗談。」 「本気にされたらどうするんですか?」
「こんなばあさんを食べようとは思わんだろう? なあ、健三。」 「それは言い過ぎでは?」
「いいんだよ。 こうしてこれまでやってきたんだから。」 親父さんはコップの水を飲み干してから笑った。
奥さんは苦虫を噛み潰したような顔で奥に引っ込んでしまった。 ここには馴染みの客も来ていたのにみんな居なくなったらしい。
健三も何人かと連れ立って飲みに来たことが有る。 でもそいつらも結婚やら転職やらで居なくなってしまった。
「息子さんはどうしてるんです?」 「ああ、幸雄か。 あいつは最近になって一念発起したらしい。 板前になるって知り合いの料亭に入って修行してるよ。」
「30過ぎてからですか?」 「そうだ。 サラリーマンじゃ物足りないとか言ってな。」
以前、飲みに来た時には皿洗いをしていたような、、、。 そいつが板前修業とはなあ。
「あんたも50が近いんだろう? 嫁さんは捕まえたか?」 「いやあ、それがまだ、、、。」
「ダメだなあ。 母ちゃんを貸すから嫁暮らしの練習でもするか?」 「それは無いわよねえ。 健三さん?」
「いや、まあ、、、。」 「文代に教えてもらえ。 女の口説き方を。」
「お父さんったら、、、。」 そこへ馴染みらしいおっさんたちが入ってきた。
「やってるなあ 親父。」 「今晩も美味い酒を飲ませてもらうよ。」
「あいよ。 勝手にしやがれってんだ。」 親父さんは秋刀魚を焼き始めた。
健三はというと焼酎を3杯も飲んでしまっていい加減に酔っているらしい。 「ありがとう。 また来るよ。」
そう言って店を出て歩き始めた。
「今の流行はおしゃれなの。 こんな田舎じゃ生きていけないわ。」 「そんなこと言ったって都会でやっていけるのか?」
「もちろん分からないわよ。 でもこんな田舎で死ぬよりよっぽどにましだわ。」
そう言って松代は丹後原を出ていったんだ。 他の女たちがそうしたようにね。
あれから12年が経ってしまった。 松代だってもうすぐ50だ。
暗い夜道を歩きながら健三は松代のことを考えていた。 忘れているはずなのに今更のように鮮やかに思い出が蘇ってくる。
何度も首を振りながら「今はもういいんだ。 松代は終わったんだ。」と自分に言い聞かせながら歩いている。
何時に家に着いたのか何処をどう歩いたのか分からないのだが翌朝もきちんと彼は居間の布団の中に居た。
さすがに飲み過ぎちまったらしい。 頭が痛くて仕事どころではなさそうだ。
休みの電話を入れた健三は夕方まで布団の中で死んだように眠っていた。
1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送によって終戦が宣言された。 以来20年余り、日本は何をしてきただろう?
神道を真面目に信じてきた人たちは底知れぬ脱力感に恐れおののいたことだろう。
これまで信じてきた物がまったくの無力だったのだから。 期待した神風すら吹くことは無かった。
そして一方では侵略戦争に没入した軍部政府を激しく非難して自決する人々も居た。 思想の果ての自決だった。
さらに一方では終戦から数年経っても武装を放棄しない人たちも居た。 純粋なまでに軍部に付き従っていたのだ。
その一方では大東亜戦争を単なる侵略戦争と位置付けて激しく非難する人たちも現れた。 果たしてそう言い切れるだろうか?
日本が倒れた後、欧米にやりたい放題にやられていた東南アジア諸国は次々と独立を勝ち取っていくのである。
そこにはいつも恐れを知らぬ日本兵の姿が有ったのだ。 ただ単に侵略だと決め付けることは出来まい。
闇市が広がり暗雲が立ち込める中での戦後20年が過ぎた。 朝鮮戦争をきっかけにして不思議な好景気が訪れてから10年。
やっと日本もオリンピックを開催して西欧の仲間に復活した。 立ち上がるのはこれからである。
あの当時、西欧はアジアでやりたい放題の植民地政策を強いていた。 清でさえアヘン戦争以後のごたごたで分割統治を余儀なくされていた。
欲しい物は全てを手に入れ、さらに欲しくて略奪を繰り返す。 そんな西欧だった。
過去に文明が栄えた地域を見ればいい。 現在、その場所は悉く砂漠である。
そんな西欧に反旗を翻したのが二本だった。 しかし真珠湾攻撃によって眠っていたアメリカを起こしてしまった。
それが悲劇の始まりだった。 最後には原爆を撃ち込まれて日本は倒れたのである。
やっと経済的にも潤い始めた頃である。 健三も嫁さんのことを考えないではなかった。
「あの頃は俺も買い出しに行ったんだよなあ。 金が有る時には金を持って。 金が無い時には懐中時計や洋服を持って、、、。」
でも何処かで闇警が見張っている。 油断していると全部没収されてしまう。 泣くに泣けなかったなあ。
取り戻すために体を売った女も居たとか居ないとか、、、。
悲惨な事件も多かった。 胸糞悪い事件も多かった。
進も地獄、退くも地獄だったよな。
ぼんやりしていると「降ります!」って声が聞こえた。
バスを降りて4人は通り沿いを歩いて行く。 もう7時くらいで辺りは薄暗くなっている。
二つ目の角を左に曲がり、三つ目の角を右に曲がって少し行くと[飯屋]と書かれた暖簾が下がった店が見えてきた。
「こんな所に店が在ったんだねえ。」 「私たちも今夜初めて来たんですよ。」
暖簾を潜って中に入る。 テーブルが奥まで並んでいる。
4人は入り口近くのテーブルに落ち着いてメニュー表を開いた。
奥のほうではテレビが点いていて何かの番組をやっている。 健三は一番奥のテーブルに目を止めた。
そこにはスーツ姿の男が3人座っていて酒を飲みながら楽しそうに話しているのが見えた。 「そうなんですよ。 あいつも緊張してはいますが見合いを楽しみにしてるようで、、、。」
「ねえねえ、健三さんは何を食べる?」 小百合が頓狂に聞いてきた。
「シーーーーーー。」 健三は慌てて口に指を当てた。 「何か有ったの?」
不思議そうに聞く晴美に奥のテーブルを指差してみる。 「何だ、部長か。」
以来、健三は何を聞いても頷くだけである。 奥の3人はますます盛り上がってきたようだ。
いい加減、腹がいっぱいになった健三は明美に金を渡してササっと店を出ていってしまった。
まいったなあ。 あの店に部長と杉本の社長が飲みに来てたなんて、、、。 ばれてないだろうなあ?」 そう思うと気が気ではないのだが、店を出てから安心したのかあんまり食べてなかったことに気が付いた。
それで幸町にまで戻ってきた彼は養老院の奥の酒場通りへ歩いて行った。 ここには行き付けだった居酒屋が在る。
(今もやっていればいいが、、、。) そう思いながら[ひろし]という提灯を探した。
「在った在った。」 引き戸を開けると親父さんが秋刀魚を焼いているのが見えた。
「いらっしゃい。 おー、健ちゃんじゃないか。 久しぶりだなあ。」 「親父さんも元気そうで。」
「俺は不死身だから死なんよ。 アハハ。」 「あらあら健三さんじゃない。 久しぶりねえ。 どうしたの?」
「親父を見に来たんで帰りに寄ったんですよ。」 「お父さんはどうだった?」
「俺のことなんかそっちのけで寝てました。」 「あらあら、お父さんらしいわねえ。」
「今夜も飲むだろう?」 「ええ。 何か美味いのは有りますか?」
「全部美味いぞ。」 「お父さん、いくら何でも全部は食べれませんよ。」
「いやいや健三なら食べるよ。 なあ、健三。」 「まあ、、、。」
「よしよし。 じゃあこいつから食え。 焼いたばかりの秋刀魚だ。 良かったら母ちゃんも食べていいぞ。」 「あなた、、、。」
「冗談だよ 冗談。」 「本気にされたらどうするんですか?」
「こんなばあさんを食べようとは思わんだろう? なあ、健三。」 「それは言い過ぎでは?」
「いいんだよ。 こうしてこれまでやってきたんだから。」 親父さんはコップの水を飲み干してから笑った。
奥さんは苦虫を噛み潰したような顔で奥に引っ込んでしまった。 ここには馴染みの客も来ていたのにみんな居なくなったらしい。
健三も何人かと連れ立って飲みに来たことが有る。 でもそいつらも結婚やら転職やらで居なくなってしまった。
「息子さんはどうしてるんです?」 「ああ、幸雄か。 あいつは最近になって一念発起したらしい。 板前になるって知り合いの料亭に入って修行してるよ。」
「30過ぎてからですか?」 「そうだ。 サラリーマンじゃ物足りないとか言ってな。」
以前、飲みに来た時には皿洗いをしていたような、、、。 そいつが板前修業とはなあ。
「あんたも50が近いんだろう? 嫁さんは捕まえたか?」 「いやあ、それがまだ、、、。」
「ダメだなあ。 母ちゃんを貸すから嫁暮らしの練習でもするか?」 「それは無いわよねえ。 健三さん?」
「いや、まあ、、、。」 「文代に教えてもらえ。 女の口説き方を。」
「お父さんったら、、、。」 そこへ馴染みらしいおっさんたちが入ってきた。
「やってるなあ 親父。」 「今晩も美味い酒を飲ませてもらうよ。」
「あいよ。 勝手にしやがれってんだ。」 親父さんは秋刀魚を焼き始めた。
健三はというと焼酎を3杯も飲んでしまっていい加減に酔っているらしい。 「ありがとう。 また来るよ。」
そう言って店を出て歩き始めた。
「今の流行はおしゃれなの。 こんな田舎じゃ生きていけないわ。」 「そんなこと言ったって都会でやっていけるのか?」
「もちろん分からないわよ。 でもこんな田舎で死ぬよりよっぽどにましだわ。」
そう言って松代は丹後原を出ていったんだ。 他の女たちがそうしたようにね。
あれから12年が経ってしまった。 松代だってもうすぐ50だ。
暗い夜道を歩きながら健三は松代のことを考えていた。 忘れているはずなのに今更のように鮮やかに思い出が蘇ってくる。
何度も首を振りながら「今はもういいんだ。 松代は終わったんだ。」と自分に言い聞かせながら歩いている。
何時に家に着いたのか何処をどう歩いたのか分からないのだが翌朝もきちんと彼は居間の布団の中に居た。
さすがに飲み過ぎちまったらしい。 頭が痛くて仕事どころではなさそうだ。
休みの電話を入れた健三は夕方まで布団の中で死んだように眠っていた。
1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送によって終戦が宣言された。 以来20年余り、日本は何をしてきただろう?
神道を真面目に信じてきた人たちは底知れぬ脱力感に恐れおののいたことだろう。
これまで信じてきた物がまったくの無力だったのだから。 期待した神風すら吹くことは無かった。
そして一方では侵略戦争に没入した軍部政府を激しく非難して自決する人々も居た。 思想の果ての自決だった。
さらに一方では終戦から数年経っても武装を放棄しない人たちも居た。 純粋なまでに軍部に付き従っていたのだ。
その一方では大東亜戦争を単なる侵略戦争と位置付けて激しく非難する人たちも現れた。 果たしてそう言い切れるだろうか?
日本が倒れた後、欧米にやりたい放題にやられていた東南アジア諸国は次々と独立を勝ち取っていくのである。
そこにはいつも恐れを知らぬ日本兵の姿が有ったのだ。 ただ単に侵略だと決め付けることは出来まい。
闇市が広がり暗雲が立ち込める中での戦後20年が過ぎた。 朝鮮戦争をきっかけにして不思議な好景気が訪れてから10年。
やっと日本もオリンピックを開催して西欧の仲間に復活した。 立ち上がるのはこれからである。
あの当時、西欧はアジアでやりたい放題の植民地政策を強いていた。 清でさえアヘン戦争以後のごたごたで分割統治を余儀なくされていた。
欲しい物は全てを手に入れ、さらに欲しくて略奪を繰り返す。 そんな西欧だった。
過去に文明が栄えた地域を見ればいい。 現在、その場所は悉く砂漠である。
そんな西欧に反旗を翻したのが二本だった。 しかし真珠湾攻撃によって眠っていたアメリカを起こしてしまった。
それが悲劇の始まりだった。 最後には原爆を撃ち込まれて日本は倒れたのである。
やっと経済的にも潤い始めた頃である。 健三も嫁さんのことを考えないではなかった。
「あの頃は俺も買い出しに行ったんだよなあ。 金が有る時には金を持って。 金が無い時には懐中時計や洋服を持って、、、。」
でも何処かで闇警が見張っている。 油断していると全部没収されてしまう。 泣くに泣けなかったなあ。
取り戻すために体を売った女も居たとか居ないとか、、、。
悲惨な事件も多かった。 胸糞悪い事件も多かった。
進も地獄、退くも地獄だったよな。