愛した人は剣奴だったから
3 テラスの迷い
アデリアの屋敷の裏手には家禽小屋がある。毎日、律儀に卵を産む早起きの鶏が裏口の小屋で高らかに鳴いた。今夜も明け方近くまで起きて仕事をしなければならない。
屋敷の備品や食材の一つ一つの値段をこうして書き込むのだが、それとは別に、自分の副業の帳簿も記載しなければならない。
テラスは、こめかみの辺りを揉み解しながら尖筆を置くと乾燥気味の額を押さえていた。家計簿との睨めっこが続いている。アデリアの私的な費用の穴埋めをしようとして色々と苦慮しているのである。苦労が尽きない。レンシーとレンシーの妹を買ったせいで、またしても資産が減ってしまっている。
ヘルワという娘は、余所で働かせる事なく女子修道院に預けている。
戦争のせいで奴隷になってしまったが、ヘルワは貴族なのだ。
(奴隷のままだと、年頃になると、手を出してくる男もいるかもしれませんものね)
ノラカンナの貴族としての教養を身につけて欲しいとテラスも考えての事だった。
(お嬢様は、何も分かっておられないわ。シルミス様は、あなたを屋敷から追い出すかもしれないのですよ。わたしも無事とは限りません)
この国の法律では、解放された奴隷の財産は、その奴隷に子供がいない場合は主人が相続する事になっている。
(シルミス様が家督を継いだなら、わたしは殺されるかもしれませんよ。わたしの蓄えを没収できますものね)
しかし、醸造所や畑の管理を誠実にこなしている限りは、そう簡単に殺したりはしないだろう。だからこそ、仕事の手を抜く事は出来ない。いつまでも元気でいられる自信がない。最近、目が見えにくくなっている。きっと、かつて飲んだ毒の後遺症だ。
早く、アデリアに最適な伴侶を見つけてやりたい。アデリアの母親からも守って欲しいと頼まれている。
(奥様の財産をアデリア様に継承しなければ申し訳が立ちませんわ……)
オスベル南東にあるカリカトス島の肥沃な農地はアデリアの母親の婚資である。葡萄、小麦、メロン、アーモンドなどを栽培してきた。今年も豊作だ。畑の脇にある葡萄酒の醸造所もアデリアの母が結婚後に建てたものだ。
カリカトス島のアストロ火山が噴火した。あの日、テラスはアデリアの母と一緒にいた。農地とワイン醸造所の視察を終えて帰ろうとした夕方に起きた悲劇だった。煮えたぎる溶岩と落石の雨から逃れたようとして埠頭へと駆けていた。
『奥様!』
小石がアデリアの母の後頭部に直撃しており、道端でよろめいた。
『へ、平気よ』
彼女はそう言っていたけれど、その傷は、深かったようだ。頭からとめとなく血が流れていた。噴火の騒動の中、船に乗るのが精一杯で医者を呼ぶ余裕などなかった。残念ながら航海の途中で亡くなった。
『テラス……。娘を守ってあげてね』
はいと頷いたテラスにはアデリアを見守る責任がある。
屋敷の備品や食材の一つ一つの値段をこうして書き込むのだが、それとは別に、自分の副業の帳簿も記載しなければならない。
テラスは、こめかみの辺りを揉み解しながら尖筆を置くと乾燥気味の額を押さえていた。家計簿との睨めっこが続いている。アデリアの私的な費用の穴埋めをしようとして色々と苦慮しているのである。苦労が尽きない。レンシーとレンシーの妹を買ったせいで、またしても資産が減ってしまっている。
ヘルワという娘は、余所で働かせる事なく女子修道院に預けている。
戦争のせいで奴隷になってしまったが、ヘルワは貴族なのだ。
(奴隷のままだと、年頃になると、手を出してくる男もいるかもしれませんものね)
ノラカンナの貴族としての教養を身につけて欲しいとテラスも考えての事だった。
(お嬢様は、何も分かっておられないわ。シルミス様は、あなたを屋敷から追い出すかもしれないのですよ。わたしも無事とは限りません)
この国の法律では、解放された奴隷の財産は、その奴隷に子供がいない場合は主人が相続する事になっている。
(シルミス様が家督を継いだなら、わたしは殺されるかもしれませんよ。わたしの蓄えを没収できますものね)
しかし、醸造所や畑の管理を誠実にこなしている限りは、そう簡単に殺したりはしないだろう。だからこそ、仕事の手を抜く事は出来ない。いつまでも元気でいられる自信がない。最近、目が見えにくくなっている。きっと、かつて飲んだ毒の後遺症だ。
早く、アデリアに最適な伴侶を見つけてやりたい。アデリアの母親からも守って欲しいと頼まれている。
(奥様の財産をアデリア様に継承しなければ申し訳が立ちませんわ……)
オスベル南東にあるカリカトス島の肥沃な農地はアデリアの母親の婚資である。葡萄、小麦、メロン、アーモンドなどを栽培してきた。今年も豊作だ。畑の脇にある葡萄酒の醸造所もアデリアの母が結婚後に建てたものだ。
カリカトス島のアストロ火山が噴火した。あの日、テラスはアデリアの母と一緒にいた。農地とワイン醸造所の視察を終えて帰ろうとした夕方に起きた悲劇だった。煮えたぎる溶岩と落石の雨から逃れたようとして埠頭へと駆けていた。
『奥様!』
小石がアデリアの母の後頭部に直撃しており、道端でよろめいた。
『へ、平気よ』
彼女はそう言っていたけれど、その傷は、深かったようだ。頭からとめとなく血が流れていた。噴火の騒動の中、船に乗るのが精一杯で医者を呼ぶ余裕などなかった。残念ながら航海の途中で亡くなった。
『テラス……。娘を守ってあげてね』
はいと頷いたテラスにはアデリアを見守る責任がある。