愛した人は剣奴だったから
「ああ、ここまで来るのに苦労したけどな」

 ハァハァ。上下に肩を揺らすようにして息をしている。アデリアの悲鳴を耳にして慌てて駆けつけてきたらしい。

「可哀相に……」

 アデリアを注視するレンシーの瞳が少し翳っていた。以前、物乞いの老人を見つめていた特の表情に似ている。傷つけられた子供を慰めるようにアデリアの泣き顔を見守っている。

 彼は、アデリアの頬や鼻先に貼りついた巻き毛を拭う。興奮気味のアデリアの細い肩をギュッと支えるようにして告げた。

「大丈夫か? 怪我はないか? どこか打ったのか?」

 室内からアデリアの悲鳴が聞こえたので驚いた。セネカがアデリアに手を出すとは思わなかった。

「ううん、平気よ。怪我はないわ。ありがとう」

 レンシーは色々と複雑な気持ちで黙り込んでいた。テラス、彼女は午後から留守にしている。

「あの男を、ここに寄越したのは、もしかしたらシルミスなのか?」
 
「ええ、シルミスお姉様が御好意であたしを慰めるように言ったみたいなの。意図を間違えて、セネカがあんなことを……」

「やはり、シルミスなのか?」

 レンシーは瞳をくゆらせる。アデリアは姉の腹黒い本性を知らない。

 たちまち、アデリアのことが不憫に思えてきた。レンシーはふっと柔らかく息を吸い込んでいく。しっとり湿気を含むアデリアの髪からは柑橘系の甘い香りが漂っている。

「みんなが、あたしのことをカマトト女だと言うの。でも、好きじゃない人と結婚するのは嫌なのよ」

「泣かなくていい……」

 震えて怯えているアデリアの背中をさすりながら、レンシーは脱衣所へと静かに促がしながら囁いた。

「おまえは間違っていない。狂っているのは彼等の方だ」

 アテリアが感極まったようにレンシーの胸に顔を寄せると、彼はアデリアの髪をそっと撫でながら目を細めていたのである。

 アデリアは顎を上げると真剣な眼差しで訴えた。

「レンシー。ここから連れだしてよ! あたしは貴族と結婚なんてしたくない。あたしは愚かだわ。遺児を救いたいと思いながらも寄付する方法しか分からない人間よ。自分を変える為にもここにいてはいけないと思うのよ」

 レンシーは無様に倒れているセネカに視線を移す。セネカは鼻から鮮血を流している。

 さて、どうしたものか。レンシーは顎の辺りをさすりながら溜め息を漏らした。

「別に死ぬような傷ではないが、セネカのパトロンが賠償金を求めてくるかもしれないな」 

 裁判沙汰は避けたかった。セネカの所有者から訴えられたくなかった。公の場で自分の顔を晒したくない。もう自分はここにはいられない。逃亡するしかないと覚悟を決めていた。

「アデリア、オレと一緒に逃げるか?」

 レンシーが淡々と尋ねている。この瞬間、アデリアは瞳を煌めかせた。迷う事などない。

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