愛した人は剣奴だったから
 あなた一人で逃げるのです! あなただけは生き残って下さい。負傷した腹を押えて顔を歪めながら告げた者は……。

「レンシー!」

 回想の途中、ハッとなる。

 レンシーは混乱を削ぎ落とすように頭を振った。過去と現在の境目が分からなくなり、迷子の様な面持ちになり狼狽しているものだから、アデリアは下から覗き込んだ。

「どうしたの? レンシー、大丈夫?」

「何でもない。ちょっと疲れたのかもしれないな。朝までゆっくり眠りたいな」

 客室へと戻っていこうとする。しかし、その時だった。

「うわっ!」

 船体が何かにぶつかったような鈍い音がした。岩が船尾に衝突したらしい。風が急に強くなっている。この季節、天候が変わりやすくなる。

 ここは海の難所と呼ばれる場所だ。よく海難事故が起きている。

「みんな、起きろ! 船底に穴が開いてないかどうかを確認しろ!」

 当直の水夫が他の水夫達を叩き起こしている。一刻も早く穴を塞がなければならない。それに、帆を畳まなければならない。アデリアも何か手伝おうとしたけれど、レンシーがそれを制していた。

「おまえは船室でじっとしていろ! 大丈夫だ! 任せておけ!」

 悪い時には、悪いことが重なるものである。それから数時間後、雷が鳴り始めたかと思うと、突然、強い風が吹き始めた。

「こりゃ、まいったな! 嵐が来るようだぜ! 風に煽られて転覆しなけりゃいいけどな!」

 衝撃で、船底には小さな隙間が出来ていたが、水夫が素早く板で塞いでいた。マストが軋んでいる。

「総員、配置に着け! 大変だ! 船が、どんどん風で西に流されていく」

 強風に煽られながら帆を畳む。皆が、必死になって激しい揺れに耐えた。

 レンシーは、アデリアの身体と自分の腕を縄で結ぶ。

 水平線が不自然な形に盛り上がり沸き立っていた。

 船は旋回しながら漂流している。甲板に大波がかぶる。斜めに傾いた船が悲鳴のようにギシギシと軋む。突然、マストが折れたような音がしたかと思うと船首の縁がバキッッと折れた。

 倉口の蓋が剥がされている。アデリアは歯をくいしばって大きな揺れに耐え続けるしかない。

 船底まで浸水したものの、船は沈むことなく何とか持ちこたえた。嵐は収まったが船体へのダメージは大きかった。船大工が適切な処置をして、再び航行することが出来ると聞いてアデリアはホッとしていたのだった。

    ※

「死ぬかと思ったわ」

 アデリアは放心したように、ただひたすら静かな船室の寝台に横たわっていた。瞬きすらできないでいる。

「……おまえ、大丈夫か?」

 彼は、気遣うようにアデリアの顔を覗き込んでいる。嵐が遠ざかってから数時間が過ぎたというのにまだ胸がドキドキしている。

「二人とも生きていて良かった。あたし、レンシーが死んだら生きていけない」

< 88 / 104 >

この作品をシェア

pagetop