愛した人は剣奴だったから
 息を詰めるようにして身守っていると、背後に迫る若者に気付いた野良犬は憎々しげに顔を歪めて振り向いた。若者の喉元に喰らいつこうと前脚を上げて飛び掛っているが、予測したように若者は身体を逸らしてから棒をグオンと半円を描くように下方から棒を振りかざす。

 無防備な犬の柔らかな腹を狙い一撃してみせたのである。 

(えっ……?)

 あんなにも獰猛に唸っていた犬がキャインと鳴いている。パタッと口元から血を流して横たわっている。肉屋の男が若者に近付くと尋ねた。

『おいおい、殺したのか?』

『ああ、急所を叩いたから死んだ』

 もう安心だと周囲の人もホッとしている。壊れた屋台の近くにいた小太りの男が奴隷の若者に尋ねた。

『あんた凄いな。ところで、こいつは狂犬病かい? 馬の尻に噛み付いたせいで馬が暴れてこのザマだよ』

『さぁな。狂犬じゃないと思うが、馬の傷は丁寧に消毒した方がいいな。紫草の煮汁が獣の噛み傷に効くぞ』

 奴隷の若者は地面に置いていたテラコッタの壷を背負い直していく。彼は、周囲の喧騒などお構いなしで石段を上がり始めているのだが、それを見送る人々が感嘆したように呟いた。

『いやぁー、見事なもんだね。一瞬で倒しちまった。そう言えば、昨日、虎に食い殺されたザトラ人の剣闘士も女みたいな綺麗な顔をしていたっけな』

『ザトラの男は、なぜか女にモテるんだよな。うちの女房は、ザトラの剣闘士はオスベルの男より綺麗だから目の保養になるなんて言いやがる』

『きっと、先刻の奴隷もザトラ人だろうな。背か高くて男前だったもんな』

 そんな会話を耳にした後、やがて、渋滞が収まりアデリアの輿もゆっくりと動き出していたのだが……。

 あれからずっと彼が心に染み込んでいる。ふとした時に思い返してしまう。彼のことを考えていると、浮遊したような感覚になり、熱に浮かされたような状態が続いていたのだ。

 アデリアがモジモジと身体をくねらしたまま恥しそうに告げた。

「それでね、あたしの輿が動き出してからも彼の後姿を見つめたの。石段の向こうへと溶け込むようなシルエットが綺麗なの。その時も、何だか胸の奥で小さな鐘が鳴ったような気がしたのよ……」

 思い返すだけで胸かキュンと痛くなり、きゃーっと悶えて叫びたくなる。

「どうしてなのかしら。彼の事を考えるとドキドキするのよ。溜め息を漏らしたり、飛び跳ねたりしちゃうの。彼、どういう人なのか気になって仕方ないの」

「……なるほど。俗に言う一目惚れですね。耳飾をしているのなら、ザトラ系の青年ですね。それで、耳飾りの形と色を覚えていますか?」

「純金製だったわ。中心に石榴石が嵌められていたわね。細部は蔦模様よ。年齢は二十五歳前後ね」

 わざわざ、地面にしゃがみこむと、アデリアは指で描いてみせた。

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