二人でお酒を飲みたいね。
 居間の椅子に落ち着いた康子は力なく頬杖をついている。 「どうしたんだ?」
「なんとなく来てみたの。」 「仕事中じゃないのか?」
俺はコーヒーを入れながら康子の顔を覗いた。 「辞めちゃったのよ。 忙しすぎて。」
声にも何となく力が無い。 「体でも壊したのか?」
「ちょっとね。 疲れが溜まってて胃を悪くしたのよ。」 「それじゃあコーヒーは辛いな。」
俺がお茶を入れようとすると康子はコーヒーが入っているカップを取った。 「いいわよ。 せっかく入れてくれたんだもん。」
 少しずつ飲んでいる姿に俺はどうも違和感を感じる。 (胃ではないんじゃないか?)
「大丈夫よ。 ちょっと胃が荒れてるだけだから。」 少し飲んでは溜息を吐く。
そしてベランダに目をやる。 「空っぽね。」
「ああ。 お前が出て行ってから何も植えてないんだ。」 「そっか。 寂しくないの?」
「寂しくないことは無いさ。 でもさ、俺なんて花を育てたことは無いんだから。」
 そう、いつだって花を育てていたのは康子である。 チューリップだ、秋桜だ、いつも嬉しそうに種を蒔く。
球根から芽が出ると「見て見て! 出たわよ!」って嬉しそうに俺に言うんだ。
俺は何気なく鉢やプランターを眺めては仕事に出掛けていた。
 「嬉しそうだったな。 いつも笑ってた。」 「そりゃあ、花を育てるのは好きだから。」
「そうだったよなあ。 また植えるか?」 「そうねえ、花を見られたらいいけど、、、。」
「見られるだろうよ。 遊びに来ればいいんだからさ。」 「うん。」
 何気なく返した返事に康子は黙り込んでしまった。

 そのままで時間が過ぎていく。 6時のアラームが鳴った。
「あらあら、もう6時? 早いわねえ。」 椅子から立ち上がった康子だがどこか足が重たそうである。
「ほんとに大丈夫なのか?」 「うん。 疲れてるだけだから、、、。」
そう言いながら台所へ向かう康子は夕食の支度を始めた。
「今晩は煮物にするわね。 芋もたくさん有るから。」 「いいけど無理するなよ。」
「大丈夫。 任せて。」 とはいうものの、どっか弱弱しく感じるのはなぜだろう?
 あの頃のような勢いが無い。 時々、フッと溜息を吐く。
煮物を見詰めながら遠くに思いを馳せている。 どうしたんだろう?
だけど俺には聞く勇気が無い。 黙ったまま、料理を作る康子の後姿を見詰めている。
 (確かに痩せてるぞ。 胃じゃないな。) 浮かぬ顔をしていると康子が振り向いた。
「私、可愛くなったでしょう?」 「あ、ああ。」
「どうしたの? 元気無いわねえ。」 自分より疲れているはずの康子に気を使わせてしまうとは、、、。
「お前も疲れてるんじゃないのか?」 「そりゃさあ、仕事も忙しかったから、、、。」
「それだけじゃないだろう?」 「それだけよ。」
フライパンを持つ手もどこか弱弱しく見えてしまう。 俺は堪らなくなって康子の隣に立った。
「手伝ってくれるの? 嬉しいなあ。」 「久しぶりなんだからさ、、、。」
そう言いながらよろけそうな康子の腰に腕を回す。 「優しいのね。」
(今頃気付いた?」 「一緒に居た頃は何にもしてくれなかったのに、、、。」
「別れてみて気付いたんだよ。」 「私が女だってこと?」
「そうじゃなくて、、、。」 俺は康子が取ろうとしていたソースを手に取った。
「それさあ、少し入れてくれる?」 「あいよ。」
 他愛もない話をしながら料理を作っていると離婚したことが不思議に思えてくる。 「俺たち、何で別れたんだろうねえ?」
「さあねえ。 お互いにあれだけ好きだったのにねえ。」 フッと溜息を吐きながら肉を皿に盛っていく。
その仕草が今更に愛おしく思えてくる。 別れて何年も経っているのに、、、。
盛り付けを済ませると康子は疲れたように椅子に座った。 「今夜は泊っていくんだろう?」
「うーーーーーーーん、、、。」 夕食を食べながら康子は考え事をしている。
静かに時間だけが過ぎていく。 今夜は電話すら掛かってこないようだ。
「あのさあ、、、しばらくここに居てもいい?」 沈黙に耐えられなくなった康子が口を開いた。
「いいけどどうして?」 「いろいろと整理したいことが有るの。」
「整理?」 「うん。 あなたとのことも有るし、仕事のことも有るしさ、、、。」
「いいけど、、、。」 「誰か来るの?」
「しばらくは来ないよ。 それに康子が居るんだ。 仕事以外は何も無いよ。」
「ありがとう。 優しいのね。」 「前からだけど、、、。」
 それから俺たちは何も言わずに黙々と食べ続けている。 電話が鳴った。
「出てもいいわよ。」 「いいよ。 仕事のことだろうから。」
「そう? 良かった。」 康子は力無く笑ってみせる。
その顔がどうも寂しそうに見えるのはなぜだろう? 俺はふと(戻ってもいいか。)と思った。

 9時近くになって俺は珍しく風呂を沸かした。 「入ってもいいよ。」
「あなたから先にどうぞ。」 テレビを見ていた康子が俺に勧めてくる。
「じゃあ、、、。」 ほっといてももったいないから俺は服を脱ぐと浴室のドアを開けた。
「夜の風呂なんて何年ぶりかなあ。」 お湯を浴びてから浴槽に体を鎮める。
しばらくするとドアが開いて康子が入ってきた。 「一緒に入るのも久しぶりねえ。」
湯を浴びている康子の体は確かに痩せている。 食事を作っている時よりさらに俺は驚いた。
「ほんとに大丈夫か?」 「うん。」
 俺には弱音を吐いたことが無い康子である。 でも今夜は何かが違う。
唇が歪んで見えるのはなぜだろう?
(まさか、子宮癌だなんて言えないわよ。 こうして仲たがいすることも無く仲良くやってるんだから、、、。) 康子は俺の隣に体を鎮めるとまた溜息を吐いた。
(どっか違うんだよな。 ほんとに何も無いのか?) 玄関先で蹲るように座っていたあの顔、、、。
そして今も力無く俯いている顔、、、。 あの頃の康子とは違うんだ。
 浴槽から出た康子は体を洗い始めた。 俺は何も言わずにそのタオルを取って背中を洗ってやる。
何も言わずに任せてくれる康子に俺は惚れ直したような気がした。

 風呂から出ると思い出したようにジュースを飲み、そしてまた康子は溜息を吐いた。 何かを言い淀んでいるようだ。
「あなたにさ、聞いてほしいことが有るのよ。」 「何?」
(やっぱりか、、、。)とは思ったが怒る気になれない俺は康子の前に座った。
「あたしね、子宮癌なの。」 「何だって? 子宮癌?」
「そう。 まさか自分が癌になるとは思わなかったわ。」 俯く康子を俺は黙って見詰めている。
「でもね、まだ初期なんだって。 治療すれば何とか、、、。」 「そうだよ。 今は治療法だって進んでるんだから心配は無いよ。」
「でもさあ、そう言われて死んじゃった人もたくさん居るよね。」 「人は人。 康子は康子だ。 心配は無いよ。」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。 でも心配なの。」 「何が?」
「あなたを残して死んじゃうんじゃないかって。」 「バカだなあ。 俺だって子供じゃないんだぞ。」
「そうかなあ? 私の子供みたいに見えるんだけど、、、。」 「おいおい、、、。」
笑って見せる笑顔も今夜は寂しそうに見えてしまう。 せめて今夜くらいは本気で笑ってほしいもんだ。
俺は自分の部屋に残しておいた康子のパジャマを持ってきた。 「え? こんなのまだ持ってたの?」
「そうだよ。 いつか会う時が来そうな気がしてな。」 「あなたもまだ愛してたのね?」
「丸一で飲んだろう? あの時さ、俺はまだ好きなんだなって思ったんだよ。」 「じゃあ、捕まえてくれたらよかったのに、、、。」
「でもさあ、もう何年も経ってるんだ。 いいやつが居るんだろうなと思って、、、。」 「そんなこと無いわよ。 あなた以外は誰も好きになれなかったの。」
そう言うと康子は泣き崩れてしまった。 「泣くなよ。 もう離れたりしないから。」
「ほんとに?」 「ほんとだよ。 約束しよう。」
 俺はあの頃のように強く康子を抱き上げた。 (これで死んでも悔いは無いわ。)
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