甘い香りが繋ぐ想い
額が冷たい。
ゆっくり目を開けると、尼僧が濡れた布で顔を拭ってくれていた。

「シンベエ」

美しい面貌が目の前にある。
まさしく暗闇の中、光の先にいた尼僧、松姫だ。

思わず『姫』そう口にしそうになったが、かろうじて飲み込んだ。

「シンベエ、わたくしがわかるか?」

どう答えて良いのか分からず、口籠っていると、尼僧の表情が寂しげなものに変わった。

「もしや記憶を……記憶を失くしたのか?」

どうやら、信忠はシンベエという者のようだが、その者がどのような人物なのか全くわからない。
このまま記憶を失ったということにした方が得策かもしれない。

「シンベエ、ですか?」

「そうです。そなたは親兵衛。わたくしたちの命の恩人じゃ」

「命の恩人?」

「そうじゃ」

尼僧の話によれば、松姫一行が逃避行の最中、食糧が底をつき、野垂れ死そうになっていたところを親兵衛とその母親が、畑で採れた野菜や、貯蔵していた全ての食材を提供し、助けたとのことだった。
それからも親兵衛親子は、尼僧となった松姫のもとに、採れたての野菜を届け続けていたそうだ。しかし、親兵衛の母親が辻斬りに遭い亡くなった。母想いだった親兵衛は母親を守ることができず、自責の念に苛まれ、生きる気力を失った。そして行方知れずになってしまっていたとのことだった。

「親兵衛、生きていてくれて良かった」

尼僧の目に涙が滲む。

「心無い者が、そなたのことを、大男のくせに気弱で臆病だと言うであろうが、気にすることはない。そなたは誰よりも優しい心を持っておるだけじゃ。今後、そなたの去就は、大久保長安(ながやす)殿に委ねるが、案ずることはない。大久保殿なら良きに計らってくれようぞ」


その後、信忠は親兵衛として松姫(信松尼)の傍で、雑用を任されることとなった。
力仕事はもっぱら信忠の役割だ。
肉体労働ではあるが、剣を持つことも、もちろん、人を斬ることもない。
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