「好き」と言わない選択肢
 マンションの玄関のドアを開ける。

「ただいま」

「おかえり。もんたに行ってたの?」

 ママは、リビングでパソコンから目を離す事なく、口だけを動かした。

「うん」

 返事をしながらキッチンに向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。


「姉さん達は、元気そう?」

「うん。お店混んでて忙しそうだった」

「お店が繁盛しているならいいわ。あら、雨に濡れたの?」

 やっと、パソコンから顔を上げたママが立ち上がった。


「ちゃんと拭きなさいよ」

 洗面所から持って来たタオルを私の頭の上に乗せてくれた。

「ありがとう」

 頭の上に乗せられたタオルで、まだ少し濡れていた髪の毛を拭きながら、また、パソコンの画面を睨んでいるママに目を向けた。

 ママとパパは、私が高校生の時に離婚した。お互い仕事が忙しくてすれ違いが原因だと言っていた。ママはちょっと大きな会社の経理部長をしていて、日々仕事に追われている。でも、本当に仕事が好きなんだと思う。そんなママに幼い頃から、寂しいとか不満を感じた事はなかった。どちらかと言えば、仕事に熱い思いを持っているママをカッコいいと思っていた。

「おばさんが、浅漬けくれたけど、お茶漬けにでもする?」

「いいわね。咲音も食べるでしょ?」

「うん」

 カウンターに置いた紙袋から、浅漬けを取りだ残りご飯で、お茶漬けの準備を始めた。


「仕事はどう? 慣れてきた?」

 テーブルに向き合って、お茶漬けをすすりながらママが言った。

「まだ、四か月だよ。分らない事ばっかり」

「そりゃそうでしょ。まずは、なんでも知る事よ」

「そうなんだけどさぁ。なんか、いいかげんな仕事している人もいるんだよね。いい女がいるとか、人の噂話ばっかりしているの……」

「そうね。仕事に愛情がなかったり、無責任だったりする人もいるわね。だけど、遅かれ早かれ必ず結果は出るものよ。でも、好きな人が会社に居るって張り合いになったりするんだけどね。うふふっ」

 ママは、少し遠くを見て笑った。


「何それ? 私は、仕事をしに会社に行ってるのよ」

「まあ、それはいいけど、でも、よりによって何であの会社なのかしら?」

「仕方ないじゃない、受かっちゃったんだから」

「全く。パパも入社式で顔みて、びっくりしたって。前もって言えって、怒って電話してきたんだから」

「ごちそうさま」

 私は両手を合わせて、席を立った。

「もう。精一杯出来る事をやりなさい」

「はーい」

 食べ終えさお皿を持つと、キッチンの流し台に置いた。
 会社へ行くのは仕事のためだけでいい。どんな人がいようと関係ない。だから、私の事も関係ないと思って欲しい。
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