役目を終えた悪役令嬢

* * *

 デルフィーナ・ケンドールには、前世の記憶がある。
 伯爵令嬢としての生を受ける前の彼女は、こことは別の世界で生きていた。ローレン王国とはまったく違う文化が栄える、近代化した街。そこで彼女は雑貨屋の店員として生計を立てていた。

(っきいぃぃぃ! あの客、本っ当に腹が立つ!)

 夜の繁華街を、彼女は早足で歩いていた。朝の段階で綺麗にセットしていた髪はぼさぼさで、化粧もよれている。だが、今は身だしなみを整える時間すら惜しい。

(……やった! 間に合った!)

 重い仕事用鞄を担いだ彼女が向かったのは、ビルの一階にある電器屋。そこに駆け込んで閉店の音楽が鳴る前にと必死で売り場を歩き――そして、【本日入荷!】の棚に置かれていた商品を見つけて、ぱあっと満面の笑みになった。

(あった! 『クロ愛』リメイク版! しかも、初回限定特典付き!? 最高!)

 急ぎそれを購入して店の外に出た直後、閉店の音楽が鳴った。店員がシャッターを下ろす脇で、彼女はそそくさとパッケージを開封する。中に入っていたのは小さな正方形のソフトのみだが、それを見ただけで胸の奥からどっと多幸感が湧いてくる。

(ついにこの日を迎えられた。十五年ぶりにリメイクされた、『クロ愛』! 厄介な客のいびりに耐えた甲斐があったわ)

 客が彼女を名指しして文句を言ってこなければもっと早くゲームが手に入ったのだが、それはいいとして。
『クローバーに愛を』通称『クロ愛』は、平成初期――彼女が生まれるよりも前に発売された、恋愛シミュレーションゲームだ。魔法の類いはないけれどドラゴンのような生物がいる、ヴィクトリア朝イギリスくらいの世界が舞台になっている。
 ストーリーはいわゆる王道で、主人公が淑女教育を受けながら個性豊かな攻略対象たちとの仲を深めていく。子どもの頃、いとこに貸してもらったのを熱心にプレイしたものだ。

 そうして本日、『クロ愛』のリメイク版が発売された。このためだけにゲーム機本体を買い、既に家で充電も完了している。明日から三日間の休みを取っているので、存分にプレイする予定だ。

(リメイク版は攻略対象キャラの掘り下げがされていたり、追加エピソードがあったりするっぽいし……誰のルートから始めようかな。やっぱりオリジナル版からずっと私の推しの、セド――)

 ゲームのパッケージを手にほくほくとしていた、のだが。

「危ない!」
「……え?」

 誰かの悲鳴と、車のタイヤが立てるキキーッという耳障りな音。
 顔を上げると、真っ白なライトによって視界が塗りつぶされ――

 気が付いたら彼女は、『クロ愛』に登場する悪役令嬢、デルフィーナ・ケンドールに転生していたのだった。
< 2 / 12 >

この作品をシェア

pagetop