純潔嗜好男子
三日ぶりと嘘をついたが、まあ出すもの出して手を洗い流し、化粧台でリップを塗り直して外に出ようとすれば、丁度入ってきた女の子たちとすれ違い彼女等の会話が耳に入ってきた。
「…さっきの女ヤバくない?氷室さんに抱きついて無理矢理キスしようとしてたよね。」
「まじ馬鹿でしょあの子。」
「確かに〜」
キャハハとまるで嘲笑うかの如く、騒々しい二人の笑い声に私は、ん?と眉間に皺を寄せた。
今のどういう意味なのだろうか。それにしても、杏奈…あんたはやっぱり行動力凄いなと感心しながらボックス席に戻っていると、何やらスタッフさんたちがわらわらと忙しなく群がり始めていた。
その先には、私たちが座っていた席。
何かあったのだろうか…と、慌てて戻ればその場は騒然としていた。
「氷室さん!手を離してください‼︎」
そう注意を促すのは、エントランスに居たガタイの良いセキュリティの男だった。
背格好が大き過ぎて覗き込むまで、席で何が起きているのか確認が取れなかった。
「どうかしたんですか?」とひょっこり間から顔を覗かせれば、私の目に映ったのは、ソファーに仰向けに押し倒されてる杏奈の姿。
そしてその上に氷室が馬乗りになり、彼女の首元を絞めている光景。
「え、えっ!?ちょっ、何してるんですか!」
私はセキュリティを払い除けて、氷室が掴む腕を無理矢理引き剥がそうとした。
「邪魔すんじゃねーよ。」
びくともしない腕力。そして彼の瞳は血走っていた。
今にも杏奈を絞め殺してしまいそうな程の狂気が嫌でも伝わってくる。
酷く踠き苦しむ杏奈は、必死に抵抗し額には血管が浮き出ていた。
…マズい。このままでは本当に殺されかねない。と焦った私は、咄嗟に腕を振り上げた。
そして、広げた手のひらをそのまま氷室の頬へと振り切ると、ジンジンとした強烈な痛みが走った刹那、氷室の頭部が勢いのままに向く。
大音量のお陰で叩いた音は聴こえはしなかったが、彼の頬が赤みを帯びていた。
「何してんのよ‼︎」
そう怒鳴れば、氷室はやっと我に返った様子で、呆気に取られながら仁王立ちする私を見上げるのだ。
絞め技から解放された杏奈は、酷く咳き込んでおり、私は直ぐにテーブルとソファーの隙間にしゃがんで彼女の安否を確認する。
「杏奈さん大丈夫ですか!?」
嗚咽しながら、涙を流す杏奈は小刻みに顔を縦に振る。とりあえずは大丈夫そうか。とお次は、未だ馬乗りになってる氷室を押し除けて彼女の上半身を抱き上げた。
衝動的な過呼吸に見舞われた杏奈の背中を摩り続けていれば、徐々に呼吸が回復していき安堵の息を吐く。
「あ…俺、え、…っと、し、ほちゃん?」
動揺を隠せない氷室が、しどろもどろに私に声を掛けてきたが、私の怒りは頂点に達しており、瞬時に奴をキッと睨みつければ、萎縮したように氷室は申し訳なさそうに眉を垂らしていた。
「杏奈さん立てます?」
「…ぅん。」
「さっ、行きますよ!」
固まってしまった氷室を他所に私は、立ち上がって席の反対側へと回り込み荷物を取って、杏奈に肩を貸してその場を後にした。
「お姉さん!ちょっと待って。」
出口に差し掛かる際に、さっきのセキュリティが追いかけてきて足止めを食らうと、私は鞄から名刺入れを出して一枚渡しておいた。
「後日、お支払いに来ます。」
地上は未だに長蛇の列を成し、果たしてこの人数があの箱に入り切るのかは定かではない。
大通りに出てタクシーを拾った私は、そのまま杏奈を自宅まで送り届けてから帰路についた。
杏奈宅を去り際に、ずっと黙りを決めていた彼女が、「間宮さん…ごめんなさい。」と酷く落ち込んだ様子で謝られたが、私は「いえ、仕事ですので、」と淡々と返していた。