幸せでいるための秘密
第十四章 裏切り
 ――樹はやめときな。

 一華さんは、明らかに何かを知っていた。

 ――あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね。

 冷ややかな声が脳裏によみがえる。ぞっとするほどむき出しの敵意。あの時の私は、彼女の言葉にただ反発し、真っ向から立ち向かってしまったけど。

(やっぱり連絡先、聞いておいても良かったかもな)

 今となっては、彼女は私の数少ない情報源。多少は距離を置きつつも、もしもの時に連絡できるようにしておくべきだったかもしれない。

 考えることが多すぎて頭がうまく回らない。

 樹くんはどうしてあんなに結婚を嫌がるの? 子どもを持つつもりはないの? 私にいったい何を隠して一人でずっと苦しんでいるの?

 そのどれもが自分一人で悩んだところで答えの出ない問題ばかり。私の選択肢といえば、樹くんに直接訊ねるの一択しかないはずなのに、私は今日も彼を避けるように会社帰りに寄り道する。

「……お客さん。お客さん?」

「あっ、はい」

 気づくと、花束を携えた店員さんが、心配そうに私を見ていた。

「お花できましたけど、どうしたんです? 何か、悩み事?」

「ええ、まあ……」

「おばさんでよければ、なんでも相談に乗りたいところだけど……今日もまた、これからこのお花を渡しに行くところなのかしら」

 百合の花を買ってきてほしいと、桂さんから連絡が入ったのは一昨日のことだ。行くべきじゃないと思いながらも、私はこうして花屋さんに寄ってまた花束を作ってもらっている。

「そうですね。今日も、これから向かうので」

「そう……。常連さんの元気がないと、やっぱり少し心配になっちゃう。無理に笑ってとは言わないけど、何かあったらいつでも相談してくださいね」

 オマケにどうぞとお子様ランチについていそうなゼリーを頂いて、私は小さく頭を下げるとお花屋さんを後にした。

「頑張るなら《《ちょちょら》》にねー!」

 大きく手を振るお花屋さんの声が聞こえる。ええと……おおざっぱとか、適当とか、そういうような意味だっけ?

 病院の前に立つと、胸に詰め込まれた鉛が重さを増したように感じた。来てしまった。後ろめたい気持ちを振り切るように、大股で自動ドアを通る。

(なにが『来てしまった』だ。結局私は自分の意思で桂さんに会いに行っているじゃないか)

 桂さんと話しているときは、何も知らない子どもの頃にタイムスリップした気になれるから。

 ただそれが心地よくて、私は自分で桂さんのもとへ通い詰めているだけに過ぎない。結婚のことも出産のことも、子どもだったら考えずに済む。そう思うと、とても気持ちが軽くなって、無邪気な自分に戻れる気がする。

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