幸せでいるための秘密
エレベーターで最上階についたとき、扉の開く音とともに知らない人が桂さんの部屋から出てきた。こんなに暑いのに上下ともしっかりとスーツを着込み、眼鏡をかけた背の高い男性。年は四十半ばくらいかな。いかにも生真面目そうな、仕事の好きそうな顔をしている。
男性は私を見ると、小さく会釈をして通り過ぎた。私も会釈を返しつつ、男性の様子をつい伺ってしまう。
桂さんのお友達……には、到底見えない。お仕事の関係かと思ったけど、そういえばこれまで桂さん自身の仕事の話を聞いたことがなかった。
男性は私と入れ替わりにエレベーターへ乗り込み、下の階へと降りてゆく。私は仕方なく桂さんの部屋のドアを、いつものようにノックした。
「桂さん、おじゃまします……」
――空気が。
もう、明らかに違う。重い。苦しい。この部屋だけ大気の重さが違うみたいで、ただ立っているだけなのに途端に息が苦しくなる。
桂さんはひとり窓辺に立って、階下を見下ろしている。白い入院着をまとった華奢な背中。それは、いつもと変わらない見慣れた光景のはずなのに、窓に映る彼の顔だけが異様な闇を醸し出している。
まるで大雨の夜を何時間も一人で歩いてきたような――途方もない絶望に打ちのめされたような。
「桂さん……?」
おそるおそる声をかけると、桂さんはようやく緩慢に瞬きをした。でも、それだけだ。心を失った人形みたく、彼の喉からは小さくかすれた吐息が絶えず漏れるだけ。
「あの……大丈夫ですか?」
「…………」
「具合悪いなら、看護師さん呼びましょうか?」
「…………」
さっきの男の人と、何かあったのだろうか。
どうしたらよいかわからず、とりあえず看護師を呼ぼうときびすを返す。そしてそのとき、急に後ろから腕を引かれて私は思わず立ち止まった。
「行くな」
震えた声。
白い指が追いすがるように、私の腕を握っている。
「出ていくなら……僕はここから飛び降りる」
本気だ、と。
一瞬にしてわかってしまうほどの闇に呑まれたその眼差し。本能が純粋な恐怖を感じ、ひゅっと私の喉が鳴る。
「ど……どうしたんですか」
「行くな」
「桂さん、どうして」
「ここにいてくれ」
言葉が耳に届いていない。彼は私の腕を無遠慮に引き寄せ、腰を掴み、手首を握って、
「頼む。お前までいなくなったら、僕は」
……ようやく目が合った瞬間、桂さんの目尻から透明な涙が流れ落ちた。