幸せでいるための秘密



 広い廊下を進んでいく、樹くんの足取りが少しぎこちない。

 たぶん緊張しているのだろう。彼の抱えるストレスの重さは、きっと私の比じゃないはずだ。

「こちらのお部屋です」

 家政婦さんに頭を下げて、私は部屋の扉をノックした。懐かしい気持ちがほんの一瞬、胸の内によみがえる。彼がひとり待つ病室の扉を、私はこうして何度も叩いてきた。片手に百合の花束を抱いて、二人の時間を楽しむために。

「入れ」

 私《《たち》》が来たということを、きっと事前に知っていたのだろう。

 ソファに深く腰掛けた桂さんは、不機嫌をまったく隠そうとしない冷ややかな眼差しで私たちを迎えた。

「桂さん。これ、ありがとうございました」

 私は家から持ってきた紙袋をそっと桂さんへ差し出した。あの日に貰ったワンピースと靴が、綺麗にたたまれて入っている。

 桂さんは紙袋を受け取るどころか、中を覗き見ようともしない。ただ、私を責めるように、罵るように、静かに睨みつけている。

「お前はもう少し賢い女だと思っていたよ」

 あからさまな侮蔑の言葉に心がちくりと痛む。

「僕の見込み違いだったみたいだ」

「……桂さん、私」

 思わず俯いた私を庇うように、樹くんが一歩前へ出た。桂さんの冷淡な視線は、当然のように樹くんへ向かう。

「桂」

 樹くんは少しこわばった顔のまま、でも、しっかりと前を向いて桂さんの目を見つめた。

「話したいことがある」

「僕はない」

「頼む。今だけでいいから聞いてほしい」

 足を組みなおした桂さんが、綺麗な瞳を険しくひそめる。しらじらしい――と、冷めた面持ちではあるけれど、耳だけは向けてくれているようだ。

 樹くんは沈黙の中でしばし気を呑まれていたようだけど、やがて意を決したように力強く顔を上げた。

「二十一年前のあの日、俺は確かに自分にとっていらないものを何もかも置いて出ていった。俺が幸せになるために捨てていったすべてのものを、桂は一人で背負って生きていかなければならなかったと思う」

「……だから?」

「子どもだったとはいえ、本当に残酷なことをした。今更だと思うかもしれないが、謝らせてほしい」

 樹くんが頭を下げる。

 桂さんは腕を組んだまま、日向でひからびるミミズを見る目で樹くんのつむじを見下ろしている。

「樹」

 永遠とも思える長い沈黙を一息に切り裂いたのは、桂さんのとても静かな声だった。

 顔を上げた樹くんの額に汗が一筋伝う。

 桂さんはただ無表情に、樹くんを見つめている。

「お前は僕が持っていないものをほとんどすべて持っている。健康な身体。自由な人生。そして母親。……その上で、父の後継ぎという僕の唯一のアイデンティティまで奪おうと言うなら、もう、僕はそれで構わない」

 そこで一旦言葉を切り、桂さんは表情を歪めた。

「でも、だったら代わりに好きな人くらい僕に譲ってくれてもいいだろ?」

 泣き出しそうな、怒り出しそうな、あふれ出る想いをどうにもできない子どものような顔だった。
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