幸せでいるための秘密
「他のものは全部あげるよ。好きなだけ持っていけばいい。僕の婚約者の家だって、お前が相手ならきっと文句は言わないだろう。でも、彼女は、……百合香だけは、僕に残しておいてくれないか」
樹くんは一度目を伏せ、固く結んだ唇を開く。
「百合香は俺の所有物じゃない」
奥歯を噛んだ桂さんを見つめ、樹くんは冷静に続ける。
「意思を持った人間だ。彼女のことは彼女が考え、彼女自身が自分で決める」
「……偽善者め」
「でも俺自身の所有物のことなら、俺が自由に決められる」
いぶかしむように眉を上げた桂さんに、樹くんはひどく落ち着いた声で「桂」ともう一度呼びかけた。
「俺の腎臓を移植しないか」
桂さんのガラス玉の瞳が、怪訝なまま見開かれた。
ちいさく開いた唇がわななき、声にならない声が漏れる。混乱する桂さんをまっすぐに見つめ、樹くんは力強く続ける。
「百合香から聞いた。人工透析が必要なほど腎臓が弱っているそうだな」
「な、なに……なんだって?」
「民法上、六親等以内なら腎臓の生体移植ができる。両親の離婚は影響しないから、俺は十分範囲内だ」
「……お前の、腎臓を? 僕に?」
「ああ。もちろん適合すればの話だが」
「なんで……なんで、そんな」
「なんでって」
樹くんは少し首を傾げ、当たり前のように言った。
「俺たちは兄弟だろ」
桂さんは――
ものの見事に言うべき言葉を見失った桂さんは、少しの間呆然としたまま樹くんを見つめていた。いつもの皮肉も鳴りを潜めて、ただただ目を丸くする彼を、樹くんは憎々しいほど落ち着いた眼差しで受け止める。
「お前は」
やがて、唐突に眉を吊り上げた桂さんは、
「お前を憎む権利すら、僕から奪おうと言うのか」
歯の合間から憎悪を漏らすように低い声を絞り出す。
「憎み続けてくれていい」
対する樹くんは、なおも平然と言い返す。
「でも桂には、俺の腎臓が必要なはずだ」
桂さんの眉間がぶるぶると震える。ぎゅっときつく目をつむり、何か叫ぼうと開いた口は、結局なんの言葉も出せないまま熱い吐息だけをただこぼした。細く浮かんだこめかみの青筋が溶けるように消えていく。
ああ、と桂さんは唸り声をあげる。彼の細い身体の内でやりきれない思いが暴れ、苦しそうに、つらそうに、彼は身悶えする。
そうしてやがて、桂さんは顔を上げる気力すら失くしたみたいにうなだれると、
「百合香」
両足の間に顔を伏せたまま、ひどく投げやりに私を呼んだ。
「お前の男は本物の馬鹿だ。嫌味は通じないし頭が固い」
「はい」
「おまけに気は狂っているし常識知らずで共感性もない。この男の隣で生きるのは、きっと苦労するだろう」
私はわずかに目を細め、桂さんを見つめてそっと微笑む。
「今はその苦労すら、少し楽しみなくらいです」
俯く彼の肩が揺れた。くつくつ、くつくつと、堪えきれない笑い声が、静かな部屋に漏れてくる。
「わかったよ」
桂さんは顔を上げた。
雨上がりの夏空のような、ひどくさっぱりした顔だった。
「僕の負けだ」
樹くんは一度目を伏せ、固く結んだ唇を開く。
「百合香は俺の所有物じゃない」
奥歯を噛んだ桂さんを見つめ、樹くんは冷静に続ける。
「意思を持った人間だ。彼女のことは彼女が考え、彼女自身が自分で決める」
「……偽善者め」
「でも俺自身の所有物のことなら、俺が自由に決められる」
いぶかしむように眉を上げた桂さんに、樹くんはひどく落ち着いた声で「桂」ともう一度呼びかけた。
「俺の腎臓を移植しないか」
桂さんのガラス玉の瞳が、怪訝なまま見開かれた。
ちいさく開いた唇がわななき、声にならない声が漏れる。混乱する桂さんをまっすぐに見つめ、樹くんは力強く続ける。
「百合香から聞いた。人工透析が必要なほど腎臓が弱っているそうだな」
「な、なに……なんだって?」
「民法上、六親等以内なら腎臓の生体移植ができる。両親の離婚は影響しないから、俺は十分範囲内だ」
「……お前の、腎臓を? 僕に?」
「ああ。もちろん適合すればの話だが」
「なんで……なんで、そんな」
「なんでって」
樹くんは少し首を傾げ、当たり前のように言った。
「俺たちは兄弟だろ」
桂さんは――
ものの見事に言うべき言葉を見失った桂さんは、少しの間呆然としたまま樹くんを見つめていた。いつもの皮肉も鳴りを潜めて、ただただ目を丸くする彼を、樹くんは憎々しいほど落ち着いた眼差しで受け止める。
「お前は」
やがて、唐突に眉を吊り上げた桂さんは、
「お前を憎む権利すら、僕から奪おうと言うのか」
歯の合間から憎悪を漏らすように低い声を絞り出す。
「憎み続けてくれていい」
対する樹くんは、なおも平然と言い返す。
「でも桂には、俺の腎臓が必要なはずだ」
桂さんの眉間がぶるぶると震える。ぎゅっときつく目をつむり、何か叫ぼうと開いた口は、結局なんの言葉も出せないまま熱い吐息だけをただこぼした。細く浮かんだこめかみの青筋が溶けるように消えていく。
ああ、と桂さんは唸り声をあげる。彼の細い身体の内でやりきれない思いが暴れ、苦しそうに、つらそうに、彼は身悶えする。
そうしてやがて、桂さんは顔を上げる気力すら失くしたみたいにうなだれると、
「百合香」
両足の間に顔を伏せたまま、ひどく投げやりに私を呼んだ。
「お前の男は本物の馬鹿だ。嫌味は通じないし頭が固い」
「はい」
「おまけに気は狂っているし常識知らずで共感性もない。この男の隣で生きるのは、きっと苦労するだろう」
私はわずかに目を細め、桂さんを見つめてそっと微笑む。
「今はその苦労すら、少し楽しみなくらいです」
俯く彼の肩が揺れた。くつくつ、くつくつと、堪えきれない笑い声が、静かな部屋に漏れてくる。
「わかったよ」
桂さんは顔を上げた。
雨上がりの夏空のような、ひどくさっぱりした顔だった。
「僕の負けだ」