幸せでいるための秘密
最終章 幸せでいるための約束
 山百合の中を、駆けている。

 樹は気づいた。あの男たちは、自分を狙って来ているのだと。会話の内容は聞き取れないが、スワベ、スワベと忌々しげに吐き捨てているのがわかったからだ。

 自分の家には金がある。父は金が大好きだ。家には毎日違う顔ぶれの大人がたくさんやってくるが、そのどれもが卑しく醜く汚い顔で、いつもいつも金の話をしている。

(《《セイジカ》》なんて大嫌いだ)

 父がどんな仕事をしているのかは知らないが、きっとこの悪党どもも、父が持つ金を狙ってきたに違いない。

「ねえ、待ってよお!」

 背後から苦しげな声が聞こえて、樹は慌てて足を止めた。遅れて立ち止まった少女は、樹と固く手を繋いだままぜいぜいと肩で息をしている。四方に茂るブナの木がざわめく。小さな手が握る山百合の花が、彼女の荒い呼吸に合わせて別の生き物のように上下する。

『ごめん。疲れたか?』

 無意味だとはわかっているが、樹は少女の顔を覗き込んで呼びかけた。彼女は英語がわからない。でも、わからないなりに気遣う気持ちくらいは伝えたいと思ったのだ。

 案の定、彼女は汗をぬぐいながら、

「サーレくん足速いねえ! でも、百合香も負けないよ」

 なんて、あっけらかんと笑っている。

 元気そうな姿にほっとしながら、樹は遠目で男たちを探す。二人……いや、三人か。あの重たげな巨体で急勾配の上り坂を駆け上がるのは大変らしい。

 でも、子どもの足で一体いつまで逃げられるだろう。

「ねえ、もう違う遊びしようよ。かけっこするの疲れちゃったよ」

 百合香の手を握りながら、樹は必死に考える。狙われているのは自分だけ。彼女はただ巻き込まれたに過ぎない。

 坂を上ってきた男たちが、汚い言葉で怒鳴り散らす。スワベのガキめ、どこへ逃げた? 向こうへ回って取り囲め!

「どうしたの、サーレくん?」

 樹は唇を噛みしめながら、百合香の身体を抱きしめた。そんなことをしても何の救いにもならないとはわかっていたが、無力な樹には他の方法が思いつかなかったのだ。

『ユリカ、ごめん。俺のせいで』

 悲痛な樹とは裏腹に、腕の中のちいさな女の子は、くすぐったそうに身をよじりながら「恥ずかしいよ」なんてはにかんでいる。

 最悪の場合は自分が囮になって、百合香だけでも逃げさせよう。もしかしたら自分は捕まってしまうかもしれないけれど、それで彼女が無事ならば。

 ……そう覚悟した矢先、突然周囲がざわめいた。じりじり距離を詰めていた悪党どもが、皆一様に足を止めて同じ方向を見つめている。山百合の坂を駆け上ってくるのは、スーツ姿で眼鏡をかけた男。間違いない。あれは、兄の付き人だ。

「くそっ、見つかったか!」

 鋭く舌打ちをしてとっさに逃げ出す男たち。兄の付き人はそのうち一人を顔色も変えずに組み伏せると、逃げ去る男の背を眺めながら警察へ電話をかけ始めた。

 しんと静まり返った山百合の森の中で、樹は百合香を抱きしめたまま呆然と立ちすくむ。

(助かった)

 張りつめていた緊張の糸が、ぷつんと途切れるのがわかった。

 その場で膝から崩れ落ちた樹とともに、百合香もまた地べたの上にぺたんと座り込んだ。肩を震わせて浅い呼吸をする樹の顔を、百合香は不思議そうな目で見つめている。それから彼女は、握っていた山百合の茎がくたくたになっているのに気づき、

「これじゃお水吸えないね」

 なんて申し訳なさそうに眉を寄せた。
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