幸せでいるための秘密

椎名くんは優しい人じゃない

・本編77ページ後の話(夜のキスからの寸止め後)
・百合香視点一人称
・椎名との話。不貞はしないけど内容が若干きわどい。
 背後に人がいないときに読む方が無難かも。





 あれから――

 ひとり悶々とした気持ちを持て余している女が私です。



 樹くんが悪い、と思う。

 だってあんなの期待するよ。押し倒されて、顔を掴まれて、このまま丸呑みされるんじゃないかってくらい深く深く求められて。

 それで突然終わらせるんだもの。こんな気持ちになってしまうのも、もう不可抗力だと思う。私だってそれなりに大人の階段を上ってきた女だ。あの先に続くことを、脳も身体も覚えている。

(……だからって、どうにもできないんだけど)

 相変わらず椎名くんの家で三人で眠っている私たち。

 そんな環境で大人のどうこうを始められるはずもなく、結局普段は保育園児の気分に戻って眠るけど。

 誰にも言えない本音を漏らすと、できれば樹くんと二人になりたい。それが無理なら……せめてひとりで、どうこうするだけの時間がほしい……。

「ねえ中原」

「わっ!」

 突然耳元に吐息がかかって、思わず変な声が漏れた。

 息を吹きかけた張本人は不思議そうな顔で「なにその反応」なんておかしそうに笑っている。

「な、なに、椎名くん」

「いや、さっきふと思い出してさ。確か波留だけじゃなくて、中原の方も俺に優しくしてくれるんだっけ?」

 私が樹くんとお付き合いするにあたり、最初に決めた三つの約束。

 従兄弟という間柄、どうしても椎名くんの扱いが雑になりやすい樹くんを戒めるために決めたものだ。

「うん、なんでも言って!」

「なんでも、ねえ……」

 お芝居みたいに腕を組みながら、椎名くんはニヤニヤ笑う。

 彼は自分のほっぺをトントン叩くと、

「じゃあ、ほっぺにチューしてって言ったらしてくれんの?」

 と、からかうような調子で言った。

 えーっと、……ほっぺにチュー?

 海外じゃ挨拶みたいなものだから、海外暮らしの椎名くん的には親しみの表現になるのかな?

 でもシンガポールってアジア圏だし、そういう文化もなさそうだけど、私が知らないだけなのだろうか。

 だいたい私のチューと優しさにどんな繋がりがあるんだろう? 考えれば考えるほどわからなくて、私はうーんと首をかしげる。

「やっぱダメ? 波留が怒る?」

「ダメじゃないけど……ああでも、樹くんは確かに怒る、っていうかやきもち焼くと思う。ル〇バすら許せない人だしね」

「ああ、ル〇バね……ていうか、ダメじゃないんだ」

 椎名くんは私の顔をまじまじと見つめ、それから真正面に座ると、

「じゃあ……鼻、触ってもいい?」

 と、今度は私の鼻を指さした。

「鼻?」

「鼻」

「なんで鼻?」

「なんでも」

 いや、本当に、なんで鼻?

 どこから鼻が出てきたの?

 ゴミでもついていたのかしらと慌てて鏡を見ようとしたら、意図を察したらしい椎名くんに文字通り鼻で笑われた。なんだか少し悔しくなって、私はその場で姿勢を正すと、

「鼻くらいどうぞ」

 と堂々胸を張ってみせる。

「じゃあ失礼して」

 前のめりになった椎名くんの顔がぐんと近づく。

 ぶつかる、と思って少し下がると、ここぞとばかりに可愛い顔が距離を詰めてきた。ばたばたっと壁際まで追い詰められ、背中が壁にぶつかると同時に椎名くんの腕が私の頭上に覆いかぶさる。

(は、鼻、さわるってだけなのに)

 なんでこんな壁ドンみたいなことが始まっちゃってるの?

 私の混乱を見越していたみたいに、椎名くんは笑みを深くする。ゆっくりと近づく彼の顔。私の鼻に――彼の鼻先が、ツと触れる。

 軽くつついて、それからすり合わせて、左右に軽く撫でたかと思うと、根元をつんとくすぐって。

 触れ合うぎりぎりで離れる唇から甘い香りの吐息が漏れる。これはたぶん、椎名くんが使う歯磨き粉のかおり。

 見つめあったままの視線が徐々に妖しい熱を帯びる。これは危険だと目を伏せて、でも吐息の熱に誘われるみたいに、またこわごわとまぶたが開く。

 半ばまで閉じられた大きな瞳の、抗いがたい艶やかさに、自然と喉がごくりと鳴る。混ざる吐息。男の人のにおい。

 ――身体の芯に、忘れかけていた火が灯る。

「っは」

 ふいの笑い声で我に返った。

 椎名くんは私の頬を軽く持ち上げ、傍らのスタンドミラーを引き寄せる。

「見える? ほら、今の中原」

 ぐい、と向かされるまま見た鏡の中には、

「男に見せちゃいけない顔してる」

 ――明らかに《《先》》を期待した女の顔が映っていた。

「い、ぁっ、ちがっ」

「違う? イイ顔だと思うけどね、俺」

「あの、ちがう、ほんとに、わたしっ」

「中原ってこういうの好きなの? それとも単純に、ちょっと持て余してるとか?」

「ばっ、なっ、ちがっ……!」

 逃げようとする私の腰はあまりにもあっけなく捕らえられた。あぐらをかいた椎名くんの膝の上へ、転がり込むように座らせられる。

 そのまま彼の親指が、シャツの上から私の下腹部を……その、いちばん深いところをぎゅうと押した。

「俺、波留より上手いと思うよ」

 試してみる? と。

 耳を食むように囁く声は、慣れた手つきで私の脳を揺さぶった。押された場所に集中する意識。一気に上気していく顔。

「お」

 続きを勝手に想像した脳が、小さな灯火に薪をくべる。

「お願いだからあっち行って!!」

「中原、ここ俺ん家」

「ごめんだけど! ごめんだけど! おねがいだからぁ……!!」

 膝の上でジタバタもがく私を、椎名くんはあっさり解放した。這うように逃げてマットレスへ寝転び、じろりと椎名くんを睨みつける。

 割れるような大声で笑って、椎名くんは私を眺めている。波留に言いたいならお好きにどうぞと、露骨な余裕が見える笑顔が憎らしい。

 悔しいけど、彼は決して嘘は言っていない。私の鼻に触れた、ただそれだけだ。

 勝手に驚いて、勝手に緊張して、……勝手に期待したのは、私の方。

「じゃあ俺、奥の部屋でゲームしてるから。試したくなったらいつでも呼んでね」

 そう言ってひらひら手を振ると、椎名くんは廊下の奥へと消えた。

 残された私はひとりマットレスにうずくまったまま。

 ……もしかしたら、今夜も眠れないかもしれない。





おわり


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