幸せでいるための秘密
「そういうわけにもいかないよ……」

「理由は?」

「だって、ほら、私たちもう付き合ってるわけじゃないんだし」

「ならルームシェアだと思えばいい。ちょうど部屋干し専用になっている空き部屋がある。布団なら一組使っていないのがあるし、小さめのテーブルがひとつ押し入れに畳んであるはずだ」

 キーケースから取り出した、青い鍵。

 小さくかすれた音を立て、見せつけるように光っている。

「どちらにしろ、中原には当面住む場所が必要なはずだ。新居が見つかるまでの仮住まいとするもよし、もちろんこのままずっといてくれても俺は全く構わない」

 鍵が揺れている。

 楽な方へと誘うように、思考の放棄へと導くように、揺れている。

 それは、甘い誘惑だった。目の前に差し出される易しい選択肢。それは確かに、喉から手が出るほど欲しいものではある。

 でも揺らぐ私を引き留めるように、頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。思い出して百合香。波留樹は危険な男だから、あのときあなたは彼との別れを選んだんでしょ?

「中原?」

 心配そうな声で我に返る。波留くんの瞳の真ん中に、戸惑う私の不細工な顔が映っている。

「波留くんは、どうして私に優しくするの」

 鍵の向こうで、波留くんがわずかに目を見開いた。

「どうして、か。わかっているのだとばかり思っていたけどな」

「…………」

「好意のある相手には、誰でも優しくするものだろう。中原だってそう思ったから、俺に連絡をしてきたんじゃなかったのか」

 悪意はきっとないのだろう。でも私の耳には皮肉っぽく聞こえてしまい、じわりと胸が痛くなる。

「そうだよ。……そういう女だとわかって、幻滅しないの?」

 鍵のゆるやかな揺れが止まった。

 切れ長の瞳が私を見据える。ゆっくりと、確かめるように瞬きをしてから、それは見たこともないほど柔らかな弧を描いて、私のすべてを包み込んだ。

「好きな女に頼られて嫌がる男などいないさ」

 それが答えだと言うように、大きな手が私の頬を撫でた。

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